いまどき島根の歴史

第39話 鎌倉時代の「成功」

田村 亨 研究員

(2022年7月12日投稿)

 「成功」とは何か。いかにもビジネスで大「せいこう」した社長さんの講演会のような導入になってしまいましたが、もちろんビジネスノウハウの話をするわけではありません。今回はこの単語を「じょうごう」と読んで、日本中世における財政問題について考えてみたいと思います。

 「成功《じょうごう》」とは、朝廷《ちょうてい》の官職《かんしょく》に任命されるかわりに、公共事業の財源として私財を投じることです。いわば官職をリターンとして寄付金を集めることで、プロジェクトの費用を工面する、中世のクラウドファンディングといったところでしょうか。近年の自治体における新しい資金調達方法の採用が、地方の財政難などの問題と関わっているように、中世の「成功」も当時の社会的課題の中で意義を見いだされることになります。

 中世の島根県域における代表的な公共事業といえば、やはり杵築大社《きづきたいしゃ》(現在の出雲大社)の社殿造営でしょう。大社の造営事業では、出雲国衙《こくが》(出雲国を統治する地方機関)が実務的な責任者となって、国衙の所領(公領《こうりょう》)や荘園《しょうえん》から費用・資材を調達していましたが、次第に調達が難航するようになります。鎌倉時代、宝治2年(1248)の社殿造営でも、出雲国衙は財源不足に直面しました。ここで見いだされたのが「成功」による資金調達です。

 平経高《たいらのつねたか》という貴族が記した『平戸記《へいこき》』という日記によれば、仁治《にんじ》3年(1242)12月26日、「勝部昌綱《かつべまさつな》」という人物が、大社造営費用を納めたこと(「杵築社の功《こう》))により「右衛門尉《うえもんのじょう》」に任官しています。勝部(朝山《あさやま》)昌綱は、出雲国衙最有力の官人ですので、身銭を切っている側面もあるわけですが、「成功」という形をとって費用を負担していたのです。

『平戸記』19巻より(京都大学附属図書館所蔵画像を改変)。杵築大社以外にも「大嘗会《だいじょうえ》」や「賀茂臨時祭」など様々な行事で成功が募られている。

 「成功」の具体的な納入額は、官職ごとに決められていました。昌綱が任官した「(右)衛門尉」については、ちょうど同年の4月に朝廷で議論が交わされています。平経高は、従来の方針を維持して「一万疋《びき》(百貫文《かんもん》)」を衛門尉の納入額として主張しました。

 しかし、実際には、より確実に希望者を集めるために減額すべきという声が多かったようです。「成功」の納入額を減額してしまえば、官職の価値が低下するおそれがありますが、当面は資金集めが最優先だったのでしょう。

 しかし、衛門尉の納入額については、鎌倉幕府《かまくらばくふ》の意向も反映される形で、最終的に百貫文で維持されたようです。幕府の御家人《ごけにん》たちは「成功」で大口の寄付者となっており、朝廷の官職は御家人たちの序列の指標としての意味もありました。官職の価値が下がれば、幕府内の身分秩序も崩れてしまうため、「成功」での納入額の減額は看過できない問題だったようです。皮肉なことに、官職の価値を厳格に守ろうとしたのは、朝廷よりはむしろ鎌倉幕府でした。

 幕府の御家人でもあった昌綱も、おそらく百貫文程度納入したと思われますが、驚くべきはその金額です。一貫文がおよそ現在の10万~20万円に相当すると言われていますので、百貫文は1千万から2千万円程度の額になります。地元・杵築大社の造営に関わるとはいえ、これほどの金額を私財から投じることができたわけで、昌綱がかなりの財力を有したことがうかがえます。

 現代でいえば、それこそビジネスで大「成功《せいこう》」しない限り手が出ないような金額設定の寄付制度が「成功《じょうごう》」だったわけですが、これは当時特有の価値を有した「官職」の性格に規定されたものでした。そしてこの官職の価値は、地方有力者にも共有され、地方における公共事業の重要な財源にもなっていたのです。