いまどき島根の歴史

第69話 武家と茶の湯

廣江耕史 特任研究員

(2023年2月28日投稿)

 2020年に江津市松川町の森原下ノ原遺跡から写真1の灰被天目《はいかつぎてんもく》と呼ばれる茶碗《ちゃわん》が見つかりました。島根県内の遺跡から天目茶碗は、破片が200点出ていますが、完形品は珍しいものです。中国で14世紀から15世紀に焼かれ、お茶に用いる「盞《さん》」と呼ばれる碗として使われました。

写真1 灰被天目茶碗

 戦国期尼子《あまご》氏の城である月山富田城(安来市広瀬町)は、城の前面に城下町が広がっていました。その一部が富田川河床遺跡として調査され、ここからは多くの中国製陶磁器が出土しています。

 写真2の天目茶碗は、体部に丸みを有し器壁が薄く作られるという特徴があります。中国北部で焼かれた「北方系」の天目で日本国内では珍しいものです。この茶碗は、富田川河床遺跡の土坑(SK015)の中に、大量の陶磁器が焼土とともに投げ込まれた状態でした。陶磁器類の破片を接合したところ253個体あり、そのうち中国製が241個体ありました。

写真2 北方系天目茶碗

 この時期は、尼子氏と毛利氏が激しい戦いを繰り広げた頃で毛利氏が富田城を激しく攻めていた頃です。室町時代には、武士が中国から手に入れた「唐物《からもの》」を使い茶の湯を楽しんでいたとされますが、戦乱の最中にやむを得ず廃棄されたかもしれません。

 鎌倉時代初め、栄西は将軍である源実朝に茶の湯を点じていました。その後の鎌倉では執権北条氏をはじめとする上級武士の間に茶の湯が広まっていきます。室町時代になると、高級輸入品などを景品として茶の産地を言い当てる「闘茶」が盛んに行われ、舶来物を珍重する「唐物数寄《すき》」と言われる風潮が生まれました。

 14世紀前半に朝鮮半島南西部で沈んだ貿易船の新安沈没船に積まれていた輸入品の中には、使用痕の残る南宋時代の陶磁器がありました。骨董品《こっとうひん》をわざわざ中国から輸入していた例として、知られています。

 特に好まれたものは、黒色の釉薬《ゆうやく》がかかった天目茶碗が有名です。東山文化を築いた足利義政はこうした唐物で荘厳な茶席をしつらえる「書院茶法」を成立させます。富田川河床遺跡で見つかる天目茶碗はこうした「唐物数寄」や「書院作法」の流れをくんだものと思われ、唐物茶入と呼ばれる中国製陶器の小壺も見つかっています。

 また、この土坑(SK015)からは、朝鮮から輸入された灰青沙器の碗(写真3)も出土しています。これは「侘《わ》び茶」において「斗々屋《ととや》」と呼ばれ珍重される碗です。16世紀中ごろには大阪の堺を中心に商人文化が発達し、それまでの豪華な「唐物」から転じて質素静寂を重んじる侘び寂《さ》びの精神が生まれます。

写真3 斗々屋茶碗
                        (写真はいずれも島根県埋蔵文化財調査センター提供)

 果たして当時の最先端モードである「侘び茶」の精神が当地にも伝わったのかどうか、注目されるところです。この土坑からは「唐物数寄」の天目と「侘び茶」の灰青沙器碗が一緒に見つかることから興味が尽きません。  富田川河床遺跡から出土した天目茶碗は、尼子氏に関連する有力者が使用したと思われます。戦の最中でも「お茶」をたしなむことは武士の作法として重要だったのです。

中国窯跡位置図