第148話 境目の城で続いた領主間の対立
目次 謙一 専門研究員
(2024年12月11日投稿)
11月16日に益田市で開催された第31回全国山城サミット益田大会は、益田氏ゆかりの七尾《ななお》城(益田市)が基調講演・対談でとりあげられ、大いに盛り上がりました。
七尾城の位置する石見国西部は、1582(天正10)年6月の本能寺の変当時、大名・毛利《もうり》氏と織田《おだ》氏との戦争の最前線から後方に遠く離れていました。しかし、戦いに備える緊張した動きがあったのです。当時、津和野城(三本松《さんぼんまつ》城)の領主・吉見広頼《よしみひろより》は、毛利氏に従い最前線の備中高松《びっちゅうたかまつ》城(岡山市)方面へ出陣していました。
それ以前の4月末、吉見氏重臣の吉見頼盛《よりもり》は下瀬山《しもせやま》城(津和野町)の防衛を家臣たちに命じています。10人が三つの組に分かれて交代制で守備する決まりで、従わなかった時の罰則もありました。同城は、北隣の領主で同じく毛利氏に従っていた、益田氏に対する拠点でした。
注目すべきは、本能寺の変後の11月に下瀬山城の土木工事が行われている点です。織田氏後継の羽柴秀吉《はしばひでよし》は毛利氏と和睦し、その脅威は消え去っていました。それでも吉見氏が益田氏を警戒し、下瀬山城強化のために工事をしたのはなぜでしょうか。
歴史をひもとくと、下瀬山城やさらに北の横山《よこやま》城(益田市)周辺は、両氏が本能寺の変以前から戦った場所です。1554(天文23)年、益田氏が吉見氏の下瀬山城を包囲し、籠城戦となりました。翌々(弘治2)年、吉見氏は益田氏の横山城を攻略し、家臣に長く守らせました。
また、周防国《すおうのくに》(山口県)の大名・大内《おおうち》氏が滅亡した1557(弘治3)年以前に、益田氏は長門国《ながとのくに》阿武郡《あぶぐん》(同県)沿岸部一帯へ進出しましたが、同郡内陸部を確保した吉見氏は、後に益田氏から沿岸部の多くを奪い、代わって支配しました。
これら吉見・益田両氏が各地で激しく戦ったのは本能寺の変から20年ほど前のことであり、双方の記憶にまだ新しいことだったのでしょう。両氏の鋭い対立を踏まえると、互いの支配領域の境界地帯で緊迫した状態が持続していたこともうなずけます。
1562(永禄5)年、毛利氏が石見銀山を支配した後、石見国では大名による戦いが起きませんでした。平和が訪れたように見えますが、吉見氏と益田氏の境界地帯ではその20年後もまだ軍事的な対立が続いていたのです。下瀬山城や横山城に残る平坦地や堀・土塁といった防御遺構は、そうした長い歴史を反映しているように思われます。