いまどき島根の歴史

第166話 長州軍の新兵器「ミニエー銃」の流行り謡

 矢野 健太郎 専門研究員

(2025年5月14日投稿)

 慶応2(1866)年、幕末の政治情勢を決定づけることとなった「幕長戦争」が勃発し、石見国は、「石州口の戦い」と言われた激戦地のひとつとなりました。

 6月15日、津和野藩と交戦することなく、津和野藩領を通過した長州軍は16日に、写真の津和野藩と浜田藩境の扇原関門へ向かいました。

扇原関門(益田市多田町)

 この時の関門の守備隊長が岸静江でした。岸は長州軍の通過を許さず、ここに石州口の戦いの火ぶたが切って落とされました。

 鎗≪やり≫の名手であった岸は孤軍奮闘するも多勢に無勢、ついに長州軍の銃弾に斃≪たお≫れてしまいました。藩命に殉じた岸静江の物語は、多田神楽保存会の創作神楽「扇原」として、現在まで語り継がれています。

 この緒戦に勝利した長州軍は、その後の益田や浜田での激戦にも勝利し、石州口の戦いにおいて勝利を収めることとなりました。長州軍の勝因の一つに兵器があったことをご存じの方は多いと思います。

 長州軍が装備していたミニエー銃の射程距離が500メートルに達するのに対して、幕府軍の装備していたゲベール銃は100メートル程度でした。このため長州軍の銃弾が鋭く飛来するのに対して、幕府軍の銃弾は届かず、苦戦を強いられることになりました。

 また、ミニエー銃の弾丸は椎≪しい≫の実型をしており、銃身の内側に施したらせん状の溝(ライフル)によって、弾丸に回転を与えて発射することで、威力と命中精度を飛躍的に上昇させ、幕府軍に甚大な被害を与えました。

 このミニエー銃について、長州軍の長沼閏四郎という人物が、7月27日に父に送った手紙のなかで、益田村周辺で次の俗謡が大流行したと伝えています。

   幕の御所置と 装條銃≪ミエーツヽ≫ハ 中ニねじれた筋がある

 幕府の今回の処置(幕長戦争の開戦)と、ミニエー銃には、中に「ねじれた筋」、つまり、らせん状の溝があるという内容になると思います。こうした俗謡が流行したということ自体も興味深い点ですが、さらに興味深いのは、当時の益田村周辺の人々は、長州軍の使用している銃がミニエー銃であること、そして、ミニエー銃には銃身の内側にねじれた筋が施されていたことを知っていたということになるでしょう。

 益田村周辺の人々が、この情報を、いつ、誰から、どのようにして入手したのかは判明しませんが、こうした状況は、少なからず長州藩に有利な戦況を生み出すことにつながったのではないでしょうか。

 もし、この俗謡流行にも長州藩が関与していたとしたら、幕長戦争における長州藩の深慮遠謀には驚くべきものがあったのかもしれません。