いまどき島根の歴史

第31話 古代出雲と朝鮮半島

松尾 充晶 専門研究員
(2022年5月17日投稿)

 『古事記』神話では、海のかなたからやってきた少名毘古那神《すくなびこなのかみ》と大国主神が出会う場所が「出雲の御大《みほ》の御前《みさき》」、すなわち島根半島東端にあたる美保関です。この神話が物語るように美保関は古代から、異世界に通じるような、遠隔地交流の窓口だったと考えられます。そのことを裏付ける、古墳時代中期(5世紀)の土器と、短甲《たんこう》(鉄板をつないだ甲《よろい》)の一部が佛谷寺《ぶっこくじ》(松江市美保関町)に伝わっています[写真1]。

(写真1)「弥陀が谷」から出土した土器(上)と短甲(下)

 これらの品は明治時代初め、佛谷寺奥の「弥陀が谷《みだがたに》」から出土しました。おそらく古墳に副葬されていたとみられます。短甲はヤマト王権が軍事力を整えるために日本列島各地の地域首長たちへ与えた品です。短甲を入手した美保関の首長は、おそらく海人集団のリーダーだったのでしょう。彼らの優れた航海術が、王権にとって重要な役割を果たしたのかもしれません。

 そこで注目されるのが、短甲と共に出土した土器です。その特徴から、約400㌔離れた朝鮮半島東南部(新羅《しらぎ》・加耶《かや》地域)で作られたもので、日本海を越えてはるばる運ばれてきたことが分かります。つまり、美保関の首長は海上交通で活躍した人物で、朝鮮半島との交易・交渉にも関わったとみられるのです。

 古墳時代の美保関にこのような首長がいたことは、これまであまり注目されていませんでしたが、佛谷寺背後の丘陵を丁寧に調べると、全長45㍍程度の前方後円墳に見える地形があることも新たに分かりました[写真2]。有力者の存在を裏付ける手がかりとして注目されます。

(写真2)空から見た美保関 航空写真と古墳

 このような日本海側における朝鮮半島との交渉について、『日本書紀』には注目すべき記述があります。大鷦鷯尊《おおさざきのみこと》(後の仁徳天皇)の命を受けて、使者として「韓国《からくに》」に渡ったのが淤宇宿禰《おうのすくね》、すなわち意宇《おう》平野(松江市南郊)に拠点を置く、出雲国造の祖先だと記されるのです。

 これを裏付けるように、出雲国府跡の発掘調査では、朝鮮半島から運ばれた5世紀ごろの土器が多数見つかっています。朝鮮半島とヤマト王権を結ぶ日本海側ルートにおいて、出雲の首長は重要な役割を担っていたのでしょう。

 私が子どもの頃よく遊んだ近所の海岸(現:キララビーチ)には、ハングルが書かれた容器や漁具がたくさん打ち上げられていました。また、ブラウン管テレビのダイヤルを回すと、韓国のチャンネルが鮮明に映り、海の向こうの異国が意外に近いことを実感したものです。古代における朝鮮半島は、現代の感覚よりはるかに近い存在だったのかもしれません。