いまどき島根の歴史

第38話 優品の「砧青磁」・出雲市荻杼古墓出土品

廣江耕史 特任研究員

(2022年7月5日投稿)

 昭和40年(1965)、出雲市荻杼《おぎとち》町で陶製の大甕と中国浙江省(りゅう)(せん)窯で焼かれた青磁3点が発見されました。当時は、周辺の土地区画整理事業がおこなわれており、その工事中に見つかったものです。後に島根県立博物館学芸員の近藤正氏が現地を確認し、発見時の様子を関係者から聞き取った内容を報告しました。報告によると、水田から石で蓋をした陶製の大甕1個と甕の中から青磁3点、骨片が若干見つかったということです。現在、出土品は重要文化財の指定を受け、奈良国立博物館が収蔵しています。

荻杼古墓の発見現場(1966年、近藤正氏撮影)

 大甕は、発見時に口縁部の一部が欠けていましたが、大形の完形品で器高86.2㎝を測り、その特徴から常滑(とこなめ)系の陶器とされています。甕の中から出土した青磁は、碗2点・皿1点です。碗は外面に(しのぎ)を有する蓮弁文様があり、厚い青緑色の釉薬がかけられるという優品で、中国浙江省にある龍泉窯の13世紀後半の製品です。県内の遺跡で他にも中国製陶磁器は出土していますが、破片や部分的に欠損したものがほとんどで、無傷で発見されることは極めて希なことです。

出土品一括(陶製の甕、青磁の碗、蓋石、円礫)

 中国産の陶磁器は船で運ばれており、1975年に韓国の南西海岸部の新安沖の沈没船からは14世紀前半の龍泉窯青磁を始めとする陶磁器が大量に見つかっています。この船は貿易船で中国から韓国の沿岸部を通り博多に向かう途中だったようです。当時は、博多を経由して日本各地に運ばれ、荻杼古墓の青磁も同様のルートが想定されます。龍泉窯青磁は南宋から元時代を経て明代まで焼かれ、荻杼古墓出土品は「砧青磁」と呼ばれ珍重されたものです。「(きぬた)」は、衣板(きぬいた)の上で布を柔らかくするために槌で打った、「きぬいた」がつまった語。龍泉窯青磁の花入れの形が砧の杵に似ていたことから付いた名称とも言われています。

龍泉窯青磁の碗と皿(『古代文化研究』第19集より転載)

 これだけの優品の陶磁器を手に入れることが出来た、古墓の被葬者は誰なのでしょうか。①出雲市内では、荻杼古墓と同様な時期の遺跡として東西100mの区画中に建物跡がみられる姫原町(くら)小路(しょうじ)西(にし)遺跡があり12世紀後半~15世紀前半の時期の在庁官人であった朝山氏の居館とされています。②出雲市東林木町青木遺跡は、荻杼古墓から当時の斐伊川を挟んだ北側に位置し、中世前半の中国陶磁や国内の陶器が多く出土し、斐伊川の水運に関係する場所で流通拠点だったと考えられる場所です。この地は、平安時代末以降、摂関家の九条家の荘園「林木荘」と文献史料に出てきます。③荻杼町は明治8年(1875)まで神門郡荻原村に属しています。13世紀後半には御家人である出雲守護佐々木氏の所領の一つで、「佐々木家系図」には守護の一族に「荻原氏」なる人物もいますが、直接古墓の被葬者は特定できません。

 中世の出雲平野では、館跡、墓、流通に関わる遺跡が点在し、中世前半期に出雲平野の開発が大幅に進んだことが想定されます。古墓の被葬者は、①~③のような平野の開発に関わった有力な人物だったと思われます。