「この先行き止まり」の神社を訪ねて―『風土記』社 ぶらぶらある記―
2023年9月29日の日記 野々村安浩 特任研究員
古代文化センターが編集した『出雲国風土記―地図・写本編―』『出雲国風土記―校訂・注釈書編―』の作成作業の中で、『出雲国風土記』(以下、『風土記』)記載の神社は、どういう景観の中にあるのか、少し気になりました。
ここでは、私的な関心で訪ねたあるひとつの神社について、お話ししたいと思います。
島根県内の出雲地域には、『風土記』神社名を継承する神社があり、今でもその地域の人々に祭られています。
そのうちの一つに、『風土記』飯石郡「神代社」名を継承する、雲南市三刀屋町神代(こうじろ)の神代(こうじろ)神社があります。
『風土記』の現在の活字本では、「神代社」のふりがなは「かみしろのやしろ」。「神代」の地名は、戦国時代の史料に「神白」とみえています。江戸時代の『風土記』の注釈書の『出雲風土記鈔』(岸崎時照 1683年)では、飯石郡神代村の久仁加羽加大明神が当社に比定されています。また、江戸時代の地誌『雲陽誌』飯石郡神代に久仁加羽加明神とみえ、「『風土記』に載る神代社なり」とあります。さらに、旧社地は頭子廻(とうこさこ)の山腹にあったとされます(『中野村誌』1934年)。
広域農道、通称「飯石ふれあい農道」の神代トンネルを通り抜けると、県道51号線(出雲奥出雲線)の交差点(写真1)に出ます。
そこを左折、神代地域の案内板(写真2)があります。
そのそばには「この先行止り」の看板。この道が県道51号線です。ここを進んでいくと、また「800m先行止り」の案内板(写真3)。
人家が途切れる所にも「この先行き止まり」の立て看板(写真4)。
道幅は普通車幅、左には笹(葉が大きく、笹巻に向いた大きさ)、道端の溝には金属の蓋、右手には稲穂がたわわに実る水田が広がる。頭上には栗の実が(写真5,6,7)。
この道の先に神代神社の石段が見えます(写真8、9)。
お参りすると、拝殿のなかには神紋「二重亀甲に神」字の幕が掛かり、参道の石灯篭には「明治廿四年卯七月」、鳥居には「明治廿六年巳九月建之」の銘が刻まれています。主祭神は国常立命(くにのとこたちのみこと)(島根県神社庁編『神國島根』1981年)。
参道脇の鉄柱は、国道51号線沿いの鉄柱(写真14,15)「コウジロ 分」から拝殿までの電線用でした。
そして、ここは「ハートフルロードしまね 神代自治会の終点」でした(写真16)。
道路舗装と電線はここまで。傍には駐車ができる草原。その奥はうっそうと、落ち葉が積もったぬかるんだ狭い道。
また、この神社の南西は、2004年の市町村合併前は旧飯石郡三刀屋町神代と旧同郡吉田村田井の町村堺、さらにそれ以前は、中野村と田井村の堺であった(写真17 『中野村誌』付図 (1934年)より)
しかし、ここは国道51号線の終点ではありません。51号線は、出雲市朝山町を起点とし、途中三刀屋町乙加宮から同町中野までは国道54号線を共用。その後同町中野から神代まで。その後、途中の国民宿舎青嵐荘近くの国道314号までは島根県道路台帳の図面上には県道表示の線は引かれていますが、「重用なし」と表記されています。『島根県の道路2022』(島根県土木部道路建設課)では「通行不能」の記号が。国道314号を共用したのち、木次町平田で分かれ、阿井川沿いに上り(中国自然歩道の一部にも)、鴨倉地区、阿井川ダムを経て奥出雲町河内で国道432号の地点が終点となります(写真18)。
「行き止まり」の先に鎮座するこの神社に、現在の広域農道や県道が開通する前は、神代地区外の他地域の人はどのような道をたどってお参りしたのでしょうか。また、現在の電線や舗装した道や図面上の道などの道路行政などの様子の一端が分かった気がしました。
*ハートフルロード しまね…沿道の除草等の経費が助成される。