お地蔵さま?、道祖神?、中世の供養塔
2023年12月26日の日記 榊原 博英 特任研究員
あるお堂の中の写真です。お地蔵さまが赤い前垂れをつけて安置されており、よく見かける風景ではないでしょうか。お地蔵さまの多くは、おおむね江戸時代終わり以降のものですが、中には古く中世でも後半、戦国時代頃の小型板碑が含まれています。 板碑は石で作った供養塔です。供養塔には、亡くなった人を弔う場合と、自分の死後の冥福を祈るために建てるものがあります。典型的な板碑は頂部を三角形に尖らせ、その下に2本程度の切込み線を入れますが、線がないものも多くあります。中心に仏さまや五輪塔、梵字などを刻みます。
小型板碑は、頂部の作り方は板碑と共通しますが、中心に刻む像は錫杖をもった像、手を合わせた像、2体の像、五輪塔など様々あります。自然石を加工し、頂部とモチーフを掘る面は平坦、きれいに仕上げますが、他の面は粗く割ったままです。下が粗く尖ったものがあり、当時は地面にそのまま立てていたと考えられます。
類似する小型板碑は、福井県から京都北部の日本海沿いに多く、中世以来の港町と周辺に多い傾向があります。山陰で見られる小型板碑もこの地域がルーツと考えられ、船で運ばれたものも含まれているかもしれません。
上の写真は福井県大飯郡高浜町で撮影したもので、多くの中世の小型板碑がまとめておかれ、前垂れもつけられています。中世に供養塔として立てられたものを集積しており、この地域では多く見られます。
山陰では鳥取県の沿岸部(境港、赤崎、八橋、東郷など)に数基あり、島根県では東側の美保関の仏谷寺墓地などにあります。
ところが、現状では美保関から西の出雲の日本海側では見られなくなり、石見では大田市温泉津で数基、浜田市内で約50基、西の長浜で約40基、益田市沿岸部で数十基と多く見つかっています。石見銀山の積み出し港で栄えた温泉津では、何百という地元の福光石の石塔があるのに対し、小型板碑は6基しか確認されていません。
この中世の供養塔に前垂れが付けられ、今に残ったのは、おそらく江戸時代以降にお地蔵さま、道祖神をまつる中で、昔からあった中世の小型板碑もそのモチーフの類似から地蔵信仰、道祖神信仰により一緒にまつられ、現在まで残ったと考えられます。 1体で錫杖をもつ小型板碑はお地蔵さま、2体の像を刻むものは、いわゆるサエノカミ、道祖神と見られたようです。路傍に安置された道祖神には、男女2体が仲良く寄り添う姿のものがあり、小型板碑に似ています。
車で移動することが多くなり、歩いて道端のお堂に立ち止まって拝礼する、といった風景は、あまり見られなくなりましたが、それでも中世の古くから残った石造物は意外に多くあります。 現状では、中世の小型板碑は美保関から温泉津までは見つかっていませんが、出雲地方でも日本海沿いの港町のお堂にそっとまつられた小型板碑が、将来発見されるかもしれません。