古文書調査in飯南町
2021年12月14日投稿 面坪紀久 特任研究員
飯南町へ古文書の調査に行ってきました
国道54号線が通る飯南町は、広島方面に向かう交通の要衝として古くから栄えました。石見銀山で産出した銀は、美郷町の「やなしお道」を抜けると飯南町に入り、赤名峠を越えて尾道へと運ばれています。また、「奥飯石」とも呼ばれるこの地域では、たたら製鉄も盛んで来島の永田家は、出雲でも有数の鉄山経営者でした。
飯南町は、赤来町と頓原町が合併してできた町です。旧赤来町では昭和47年(1972)に『赤来町史』が刊行されました。この巻末には、町内各所にある古文書の目録が掲載されており、近世・近代の歴史を研究する上で、大きな手がかりになっています。
12月14日、この目録に載るたたら関係の史料を確認するために、赤名八幡宮などに調査に出かけました。赤名八幡宮は、国重要文化財「木彫坐像八幡三神像」で知られていますが、神社や旧赤来町に関わる様々な古文書を所有しています。どのような内容の古文書があるのかについては、町史巻末の目録のほか、かつて地元の赤来町文化財調査委員の会で作成された目録があり、そのあらましがわかります。
今回の調査で注目されたのは、町内の矢飼家旧蔵史料の中に石見銀山に関するものがあったことです。銀山から赤名を通り尾道に向かう経路が描かれた絵図や、文政6年(1823)の石見国絵図は目を引きました。また、来島村役場文書として伝わったものですが、明治6年に永田家が提出した「鉄山鑪場稼続願」もありました。これは、同家経営の来島村丸山鈩、小田村立石鈩など、鈩3ヶ所と大鍛冶場3ヶ所の操業を続けることを願い出た文書です。永田家は出雲有数の鉄山経営者でしたが、その詳細な状況は明らかになっていません。この史料は、永田家のたたら経営の規模がわかるものといえます。また、同じ綴りには、『赤来町史』に載る「丸山鈩及鍛冶場等配置図」も入っていました。この絵図はたたらの姿を具体的に描いたものですが、これまで所在がわかりませんでしたので驚きでした。
古文書は、地域の歴史を語る雄弁な証人です。過疎と高齢化が進む中で、地域に残る史料の所在確認と保存が急がれるところですが、地道な調査の大切さを改めて感じた一日でした。