研究員の日記

続・大河ドラマ「光る君へ」と出雲

2024年8月13日の日記  橋本 剛 主任研究員

 先日のブログ「大河ドラマ「光る君へ」と出雲」の中で、私は次のように書きました。

 「実はすでにドラマに登場している人物が、とある罪により出雲へ流されることになるのです。それが誰なのか、そしてどんな罪なのか、期待しつつ待っていただければと思います。」

 ドラマをご覧になられている方は、この答えに気づかれたことでしょう。“すでにドラマに登場している人物”とは藤原道長の甥・藤原隆家《たかいえ》のこと。正確には出雲権守《いずものごんのかみ》という臨時の国司への任命ですが、実質的には流罪といってよいでしょう。

 また、“とある罪”とは花山法皇《かざんほうおう》に矢を射かけるというものでした。ドラマでは隆家本人が矢を放っていましたが、同行していた従者がおこなったとする史料も残されています。

 さて、答え合わせは以上なのですが、大事なことに触れてきませんでした。

 隆家は確かに出雲へ“向けて”流されたのですが、実は出雲へ到着していません。道中の様子について、ロバート・秋山竜次さん演じる藤原実資《さねすけ》が記した日記『小右記《しょうゆうき》』などをもとにみていきましょう。

『小右記』(国立公文書館デジタルアーカイブより)
 

 隆家を出雲へ向かわせたのは、長徳2年(996)5月1日のこと。通常であれば馬に騎乗して行くところを、隆家が病を称したために網代車《あじろぐるま》(牛車の一種)に乗せたと、日記には記されています。

 2日後の5月3日、隆家から手紙がもたらされます。それによれば、京を出発したものの、病により、いまだ近くに滞在しているということでした。その後、5月12日には丹後に、15日には但馬に留まっている、と記されています。

 ここからしばらく、『小右記』には隆家の動向がみえなくなります。ただし別の史料によって、10月7日の段階でいまだ但馬にいること、そして「配流を停止して入京させてほしい」という文書を朝廷に送っていたことがわかります。

 結局、翌長徳3年の大赦により、隆家は流罪を赦され、晴れて入京することになります。ドラマでは、赦された隆家があまりにも短期間で出雲から帰京したため、実資らが疑問を抱いていました。なぜ隆家がそれほど早く帰京できたのか、もうお分かりでしょう。実際には出雲からではなく、途中の但馬から帰京したからなのです。

 最後に1つ。確認してきたように、出雲へ配流となった隆家は、京から丹後→但馬と進み、その但馬で留まっていました。注目したいのは、「丹後」を経由地としていることです。


平安時代の山陰道

 地図を見てもらえればわかりますが、京から出雲へは、「丹波」から直接但馬へ入るルートが一般的で、わざわざ「丹後」を経由する必要はありません。私が調べた限りでは、古代に京から出雲へ向かう際、丹後を経由した事例は、この1例のみでした。

 もちろん、『小右記』の「丹後」が実は「丹波」の誤写なのかもしれません(身も蓋もない話ですが、その可能性も少なくないと思っています)。ですが本当に「丹後」だったとすれば、丹後を経由したのはなぜでしょうか。

 なんとも難しい問題ですが、丹後に何かしらの用務があったのかもしれません。また隆家は病を理由に出雲へ向かうのを拒み続けていますから、ひょっとしたら、出雲への到着を少しでも遅らせるため、わざわざ丹後を経由するルートを選択したのかもしれません。

 以上は私の妄想ですが、こんなことを考えながら大河ドラマを観るのも楽しいものです。今後、出雲や石見、隠岐は登場するのでしょうか。最終回までしっかりと見届けたいと思います。