見立て上の水源・本当の水源
2024年9月20日の日記 平石 充 主席研究員
今日は、古代における河川の水源の話をしたいと思います。本州を中心とする日本の古代社会、特に奈良時代以降には、本州は原則水田耕作を中心とする社会だったと考えられます。こういうと歴史に詳しい人は?と思われるかもしれません。1980年代に網野善彦さんらによって、水田中心史観に対する批判や非農業民を重視する見方がだされ、この説は衝撃的であり、社会に与えた影響も大きかったためです。ただし、筆者はこれはやや行き過ぎていると思いますし、また、少なくとも古墳~奈良時代に水田農耕を中心とする地域があったことは確実です。
稲作を中心とした社会では、耕作のための水源がたいへん重視されることになります。この問題については、古墳時代の祭祀遺跡を検討するなかで、松尾充晶さんが取り組んできました。松尾さんは、人々が水田近くの山容の優れた山を、仮の水源の山に見立ててお祭りすることがあったのではないかと述べています。
大田市大家八反田(おおえはったんだ)遺跡の発掘調査では、川跡と水田に水を引くための堰が発見され、その堰の付近で祭祀遺物が出土しました。この川の水源は、実際には遙かに離れた大江高山(おおえたかやま)なのですが、遺跡からは大江高山はみえず、代わりに城山(標高359m)がみえます(写真1 松尾充晶氏提供)。
松尾さんは、この遺跡での祭祀は、城山を水源の山と見立てて行われたのではないか、としています(松尾2015)。
祭祀遺跡が何を対象にしたものなのかは実に難しい問題ですが、松尾さんは河の取水口での祭祀がみつかった遺跡では、しばしば遺跡から水源ではないが優れた山容の山が見える事例がある、としています。写真2もそのような事例の一つで、古墳時代中~後期の祭祀遺跡が確認された松江市八雲村前田遺跡からは、雨乞山(宅地造成のため、古代とは多少山容が異なります)を見ることができます(写真2)。
雨乞山は前田遺跡より下流にある山ですので、遺跡周辺の水源にはなり得ません。
私はこの説を聞いた当初このようなことはあるのだろうか?と水源の山見立て説にはやや懐疑的でしたが、今はあり得ると考えています。
図1は奈良県桜井市周辺の地図です。
ここには大神(おおみわ)神社で有名な三輪山があり、横から見ると二等辺三角形の優れた山容が望まれます(写真3)。
細かい説明は省略しますが、この山は、大倭(おおやまと)地域のカンナビ山だとされています。麓には、初期倭王権の王宮とされる纏向(まきむく)遺跡があり、奈良時代には大和の官田(古くは倭屯田(わとんでん・やまとのみた)といった)という、天皇が実際に食する米を生産する直轄水田がおかれました。そうなると、大神神社があり大倭のカンナビである三輪山が官田の水源である、といいたいところですが、じつは違うのです。
岸俊男氏の研究によると、官田の所在地は中世の興福寺領荘園出雲庄にあたるのではないかとされ、この荘園はA・B地点の2か所に分かれています(岸1988)。ミヤケに関わりあるとされる地名「太田」もそれぞれ別にあります。このうち、奈良時代の大和国の官田は、十市・城下郡(および、推測ですが城上郡)にあり、ひとかたまりだったと考えられますので、3郡の境界近くのB地点の方にあったと推定されます。さらに西側(河川の下流側)には「千代」という地名が見えますが、この千代については『播磨国風土記』揖保郡勝部岡条には推古天皇のころ、ここの勝部が播磨のミヤケ耕作に派遣されたとの説話がありますので、やはり7~8世紀にはB地点が官田の中心だったのでしょう。
図を見てもらうとわかると思いますがB地点は、初瀬(はつせ)川(大和川の本流)によって灌漑される地域です。三輪山を実際の水源とする川は纏向川なのですが、この川は水源にはなりえません。初瀬川は現代的意味での水源地(河口から一番遠い水源)は三輪山の遙か東北にあり、主要な流路をみても川の名前ともなっている長谷・榛原あたりが水源になりそうです(初瀬川の名称は『万葉集』にもみえ、奈良時代からこの名で呼ばれていました)。そして、初瀬川の水源地は特に倭王権による祭祀対象とはなっていません。奈良時代の官田にとって、三輪山は見立て上の水源なのです。
問題となるのはA地点で、こちらは初期大和王権の王宮と推定されている纏向遺跡に近く、纏向川から灌漑される地域です。推測ですが、本来の倭屯田はA地点にあり、三輪山から流れる纏向川を水源にしていたのですが、下流側に拡大され初瀬川を水源とするようになったのでないでしょうか。
さて、出雲の事例を見てみましょう。『出雲国風土記』(以下『風土記』)をみると、古代において島根郡と秋鹿(あいか)郡の堺にあった佐太神社(『風土記』では佐太御子社)は神名火(カンナビ)山の麓にあったとされています。
このカンナビ山は現在の朝日山とする説もありますが、佐太神社の裏にある三笠山(標高98m)のことだと思います(図2)。
三笠山は中世には「垂見(たるみ)やま」と呼ばれていました。『風土記』にも秋鹿郡の神社に垂水(たるみ)社がみえており、これは佐太神社の西北にある池にあったとされます。垂水とは滝の意味ですから、佐太神社は加賀神崎(加賀の潜戸)で生まれた佐太御子の神社であるだけでなく、水源の山の神社でもあるわけです。
佐太神社(佐太御子社)はその名前から分かるように、佐太国の神社です。では佐太国とはどこか、ということになりますが、サダを冠する地名は主に佐太神社の南側、宍道湖までの間に分布しています。実際に松江市上佐陀・下佐陀町のあたりから三笠山を見ると、きれいな二等辺三角形にみえますので(写真4)、この地域が佐太御子神を信仰した佐太国なのです。また、現在は圃場整備によって様子が変わってしまっていますが、このあたりには奈良・平安時代に基礎がある、条里制水田という整備された大規模水田の痕跡がありました。これが古代の佐太国の水田と考えられます。
では、三笠山からの湧水がこの地を灌漑していたのかというと、さすがに三笠山は小さすぎると思います。また、朝日山も佐太の国との間には古曽志川の谷を間に挟んでおり、水源とはなり得ません。この地域は現在も水源が乏しく、柿原池・野間池など人口の用水池が水源です。
佐太国の中心河川である佐太川(現代の運河である佐陀川の前身で、今より東側を流れていました。流路Bにあたります)は、『風土記』によると渡村(現在の佐太神社付近、流路A)と島根郡の多久川(現在の講武川)を水源としていると書かれています。これは実際その通りで、島根郡多久川の水源についての記述は『風土記』では脱落してしまっていますが、図2の東側約5kmにある今の太平山(標高502.3m)あたりと認識されていたのとみられます。
また江戸時代の記録によると、佐太神社の前に身澄(みすみ、三角とも書く)池と呼ばれる池があったとされます(写真5)。
この場所は東西の山が迫っていますので、堤を築くことで池を造り講武川の水位を上げ、流路B・Cを用いて上佐陀・下佐陀町の水田を灌漑していたと思われます。現在も、この場所で講武川の水があふれそうになったとき佐陀川に排水できるようになっています(写真の奥が講武川で左側の低い部分が佐陀川への排水路)。
以上のように考えると、『風土記』秋鹿郡の神名火山も、実は佐太国の見立て上の水源の山として理解できます。
では、これら見立ての上の水源の山は、本当に見立ての対象だけで、現実に機能することはなかったのでしょうか。先に述べたように、倭屯田についていうと、かつては三輪山を水源とする纒向(まきむく)川流域に設置されていたものが(A地点)、水田規模の拡大によって初瀬川流域(B地点)に移されたと考えられます。
出雲の三笠山も同様で、本来は三笠山の垂水は現在の佐太神社周辺にあった、小さな谷水田を灌漑していたのではないかと思います(水田跡は発見されていませんが佐太前遺跡という弥生時代の遺跡もあります)。それが、のちに講武川への築堤やそれを用いた灌漑によって、佐太国の水田の中心が上佐陀・下佐陀町に移っていたのではないでしょうか。
以上推定に推定を重ねていますが、古代において、松尾さんの言うように見立て上の水源の山はたしかに存在していると思います。見立てた理由は山容が優れており神の存在を想起させるなど、さまざまであると思われますが、その中には地域におけるより古く小さな水田の水源であったのものがあるのではないか、というのが今回のブログ記事の結論になります。
参考文献
松尾充晶2015「古墳時代の水利と祭祀」『古代文化研究』23
岸俊男1988「『額田部臣』と倭屯田」『日本古代文物の研究』塙書房(初出1985)
※観念上の水源地としては、吉野川の水源地である丹生川上神社が大和国や畿内全体の水源とみなされる事例があります(実際には吉野川は和歌山平野に流下します)。ただし、水源と見立てる範囲が一つの農業共同体の範囲を超えて広がることから上記の事例と同様に考えられるかは検討の余地があります。