いまどき島根の歴史

第44話 出雲国風土記地図

平石 充 主席研究員

(2022年8月16日投稿)

 島根県古代文化センターでは、1994年の開設以来、奈良時代の地誌である出雲国風土記の研究を続けてきました。研究を開始してから30年になろうとしており、2014年からはこの本の解説書の作成を始め、このたび八木書店より『出雲国風土記 地図・写本編』を刊行することができました。

 このうち地図編は、現代の地形図に風土記に書かれている郷や寺院・神社、山・川を表示した出雲国風土記地図です。今回はその制作過程で明らかになったことを紹介します。

 神門郡図は風土記地図の神門郡八野郷、現在の出雲市矢野町・小山町・姫原町です。赤い鳥居のマークは風土記に記載されている神社(風土記社)で、西から矢野社・大山社・比奈《ひな》社が、今の県道遥堪今市線の両側に並んでいます。地図にはグレーの点線も示しています。これは発掘調査で確認されている、古代の河川跡です。風土記社はこの川に沿って営まれているのです。この川は今は埋まって道路になっていますが、現在、その脇に斐伊川から取水された用水(枝大津川)が流れています。おそらく、自然河川だった時も用水として利用されたのだろうと推測できます。

神門郡図

 では、埋没しているこの川の上流はどうなっているのでしょうか。枝大津川が使われる以前には、斐伊川から取水される妙仙寺川から水を引いていたのではないかと考えられています(池淵俊一氏説)。

 さらに遡ってみましょう。国土地理院が公開している終戦直後の航空写真で川の痕跡を追跡すると、南西側の塩冶町の方に続いています(航空写真)。その南は市街化しており河川の痕跡は追えませんが、上塩冶町の大井谷のあたりに源流があると考えられ、これが本来の水源とみられます。

航空写真

 地図編を見ると、風土記の神門郡にあたる出雲市の平野部では、大河川である斐伊川や神戸川に直接隣接した風土記社は原則ありません。多くが郡内の山から流れ出る中小河川や斐伊川から引き込まれた用水に隣接していることが分かります。中小河川や斐伊川から引き込んだ用水から、さらに水田に水を引くために設けられた堰《せき》の場所が、人々に幸をもたらす場所として祭祀《さいし》の対象となり、やがて風土記社に発展したものと推測されます。

 出雲国風土記の情報を実際に地図に落とし込んでみると、風土記を文字として読むだけでは分からない、奈良時代の様子が見えてきます。皆さんもぜひ一度、『出雲国風土記 地図・写本編』を手にとって、奈良時代の出雲を思い浮かべてみてください。