いまどき島根の歴史

第46話 山陰の「源平合戦」

橋本 剛 研究員

(2022年8月30日投稿)

 源頼朝亡き後の御家人たちが織りなす人間模様も話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。物語は中盤を迎えていますが、前半は流人の身であった頼朝が平氏を打倒し、鎌倉に幕府を樹立するまでのストーリーでした。

 このドラマに限らず源平の争いを取り上げる際、驕《おご》る平氏と雌伏《しふく》の時を過ごす源氏という鮮明な対比が描かれます。そしてそれが、壇ノ浦《だんのうら》での平氏滅亡へと結実し、両者のストーリーがよりドラマチックに演出されることになるのです。

 ところで、壇ノ浦の戦いからさかのぼること約80年前、出雲国で起こった「源平合戦」をご存じでしょうか。それは“源義親《みなもとのよしちか》の乱”とも称される反乱です。義親は白河上皇の近臣として活躍した源義家の次男で、頼朝の曽祖父にあたる人物です。

 問題が起こったのは義親が対馬国司に就任していた時でした。彼は現地の住人を殺害して税物を奪い、さらに朝廷から遣わされた使者をも殺害する暴挙にでます。これにより1103年、隠岐国へ配流となりました。ところが4年後の1107年、義親はあろうことか出雲国へ脱出し、さらに国司の代官である目代《もくだい》を殺害して現在の松江市美保関町の雲津《くもづ》浦に立てこもってしまいます。

 こうした状況をみかねた朝廷が派遣した追討使こそ、平清盛《たいらのきよもり》の祖父であり当時、因幡国司だった平正盛《まさもり》でした。勅命を受けた正盛は出雲国へ向かい、またたく間に乱を鎮めることに成功します。その後、正盛は義親の首をささげて入京し、京内の道路は見物人であふれかえったといいます。源氏の悪人を平氏の棟梁《とうりょう》が成敗したことを、強く印象づける出来事となりました。

源義親軍を攻め立てる平正盛軍(右側)。「大山寺縁起絵巻」巻四ノ内 平正盛源義親追討図(東京大学史料編纂所所蔵写真)

 なお、正盛軍は因幡国や伯耆国などの兵を動員しており、対する義親軍も近隣諸国の人々が参加したといいます。このように義親の乱は、主戦場だった出雲国にとどまらず、まさに山陰地域全体を巻き込んだ「合戦」だったといってよいでしょう。

 義親討伐により白河上皇の信頼を勝ち得た平正盛は、格上の但馬国司に任じられました。それを機に平氏は急速に勢力を伸ばし、孫である清盛の時代に最盛期を迎えます。

 反対に源氏はというと、一族から反逆者が出たとのことで大きな打撃を被り、苦汁を飲まされることになります。義親の孫・義朝《よしとも》の時代にやや勢力を盛り返しますが、それも一時的なもので、平治《へいじ》の乱で敗れた義朝の子・頼朝は伊豆へと流されます。

 このように見ていくと、山陰の「源平合戦」の結末が頼朝の時代まで続く平氏優位の構図を決定づけた、ということができるのかもしれません。