第48話 鉄道開通と修学旅行
面坪紀久 元特任研究員
(2022年9月13日投稿)
「二十四日ノ宵《よい》ヨリ降リ出セシ小雨ニ明日ノ望ミ大方ハ失セントオモヒヨリシモナホ、心ニ神ヲ祈リツヽ夢路ニ入リヌ。身ハイツシカ汽車ノ内ニアリテ、見送ル山、ムカフル川、川過ギ畑来リ其速カナル事マタヽク間・・・」(松江市蔵「鳥取県名和神社修学旅行記」)
これは、1903年4月、松江高等女学校(戦後松江北高校に統合)に通うある女学生が記した修学旅行記の一節です。目指す先は伯耆国名和《なわ》神社(鳥取県大山町)。15才のみずみずしい感性と豊かな筆致で描かれたわずか1200字ほどの旅行記には、初めて行く汽車の旅への期待感に溢《あふ》れていました。
1872年、日本で最初の鉄道が新橋―横浜間に開通しました。これを皮切りに全国各地に広がった路線拡張の波は、ついに山陰にも到来し、1902年11月には山陰初の鉄道となる境港(境港市)―御来屋《みくりや》(鳥取県大山町)間が開通しました。鉄道の普及が人や物の流れを大きく変えたことは周知のことですが、その影響は学生たちの修学旅行にも及びました。
そもそも修学旅行の始まりは、1886年に東京師範学校が11泊12日の日程で実施した、東京―千葉県銚子《ちょうし》市間を徒歩で往復するという長途遠足であると言われています。これは、心身の鍛練を目指す兵式訓練を内包したもので、「修学旅行」の用語が初めて用いられた87年の長野県師範学校においても、その目的は学術研究を兼ねた兵事体操実地演習にあったとされています。このように、当初の修学旅行は、国家主義的な思潮の中で、軍事的色彩を濃厚に反映したものでした。
その後、1901年の兵式体操分離や鉄道普及を経て、満韓修学旅行や女学生による長途旅行の流行など、修学旅行の選択肢は地方やはるか外国にも開かれていくこととなりました。
さて、松江高等女学校で実施された修学旅行は、汽船と開通したばかりの鉄道を乗り継ぐ日帰りの旅でした。午前8時に松江大橋を出発した汽船は10時10分に米子に到着。「コヽニ数年間夢ニ見、胸ニエガキシ汽車テフモノニ初メテ乗リ得タルハ十一時ナリキ。短キ高調ノ汽笛ヲ一声後ニ残シテ我汽車ハ勇マシク走リ出デヌ…」
女学生たちを乗せた汽車が名和神社最寄り駅の御来屋駅に到着したのは、それから約1時間後のことでした。神社参道に連なる桜並木は既に葉桜となっていましたが、社に寄り添うようにして聳《そび》える松桜に、神社に祀《まつ》られる名和一族の家臣の忠義を思い、その「忠勇義烈ヲ自然ノマヽニウツシ出」しているようだと記しています。
鉄道の開通は修学旅行の在り方を変え、学生たちに大きな期待と夢を与えました。こうして、学生たちの世界は時速約30キロで走る汽車と共に無限に開かれていくこととなったのです。女学生が降り立った御来屋駅は、約120年たった現在も当時の姿のまま残っています。