第49話 古代のSDGs
東森 晋 専門研究員
(2022年9月20日投稿)
1995年の夏、大田市仁摩町の県立邇摩高等学校敷地内で、大量の木製品が発見されました。出土地は、高校から東側の丘陵に広がる大寺遺跡です。木製品は低地に堆積した粘土層に埋まっていたため、地下水によって酸素が遮断され、良好な状態で残っていたのです。
木製品の大半は、長さ1~3㍍の大型の板材と、太さ10㌢前後の杭《くい》です。等間隔に打たれた杭や、連続する矢板の様子から、古墳時代前期(4世紀)ごろ、水はけの悪い低地の水田整備を行った木組み遺構とみられます。出雲市や浜田市にある同じ時代の低湿地の遺跡でも、大型の木材を大量に使用した例が確認されています。この頃、同じような方法による低湿地の開発が進められたのでしょう。
出土した木製品を観察すると、大型の板材や杭の多くは、形や大きさ、複数の材をつなぐ穴の特徴から、建築材を再利用していることが分かりました。古墳時代前期の集落の建物は、半地下式の竪穴建物と、倉庫と考えられる高床の掘立柱建物が一般的です。
大寺遺跡では壁材や床材が多数みられたので、倉庫の建築材を再利用したと推測されます。また、杭の間に渡すように出土した壁・床・梁《はり》・桁《けた》の材は、ほぼそのまま使われていますが、杭となった柱材は縦に分割し先端を斜めに加工していました。
それでは、この倉庫はもともといつ、どこに建てられていたのでしょう。建物の耐用年数や、解体して低湿地に運ばれる間に、保管や別の用途で再利用された期間を想定すると、初めに倉庫が建てられた時期は、弥生時代の終わりごろにさかのぼる可能性があります。
浜田市内の調査例では、古墳時代前期の低湿地遺跡で出土した倉庫の建築材と、弥生時代後期の丘陵上の集落遺跡で確認された倉庫の規格がほぼ同じでした。大寺遺跡では、高校東側の丘陵で弥生時代後期の集落跡が確認されているので、そこに建てられた倉庫の古材が使われているかもしれません。
室町時代に大型ノコギリが使われるようになる以前、板材を作るのは大変な作業でした。太く成長した木にクサビを打ち込んで分割し、荒れた表面を斧《おの》で丁寧に平らにしていくには、熟練の技術と優れた工具を必要とします。
また、木材は、建物以外に農工具や武具、舟や燃料にも使われる貴重な資源です。古代の人々は、先人たちが苦労して加工した木材を、さまざまな形で再利用し、最終的に低湿地の開発に使用したのではないでしょうか。