いまどき島根の歴史

第50話 中国山地を越える道

久保田一郎 専門研究員

(2022年9月27日投稿)

 松江から広島方面に向かう松江自動車道は、2013年の全通から10年になります。高速道路の開通以前は国道54号線、その前はJR木次線が陰陽連絡の主要なルートでしたが、“道”はその地域の歴史を背負った存在といえます。

 現在、松江自動車道が通る奥出雲から庄原市高野《たかの》町にかけての地域には、峠を越える6本以上の道がありました。多くの道が高野町を通る理由は、なだらかな高原地形にあったようです。江の川へ流れ下る神之瀬《かんのせ》川の最上流部にある「和南原《わなんばら》」や「篠原《しのはら》」は谷が非常に浅く、起伏が少ないところです。島根県側からの道が急な坂であっても、分水嶺《れい》を越えて広島県側へ入ればアップダウンの小さい地形、そうした場所が交通路になったのでしょう。

地理院地図に道路、川、番号などを加筆して掲載

 奥出雲町阿井《あい》から峠を越える道は、現在の国道432号に当たります(①)。田植えの労働力として牛を一定期間貸し借りする「鞍下牛《くらしたうし》」の習慣があった頃には、牛はこの峠を連れて行かれました。雲南市木次町で盛んに作られた千歯こぎ、「木次千歯」もここを通って山陽側に販路を広げたとされています。

 高野町は、山陽側から見れば出雲へ向かう道の起点となる場所であり、道しるべが今も残ります。筆者の泊まった福原旅館(当時)の向かいが、明治時代に出雲大社詣でへ向かう旅人の宿で、昔は10人ほどのお手伝いさんがいたそうです。

 他に吉田町から高野町篠原へ通ずる道があり、江戸時代の『出雲風土記鈔』で紹介されています(②)。

 飯南町の頓原町から上がり大万木《おおよろぎ》山付近を通る道は、大田市付近でとれた海産物が頓原を経由して山間部へ運ばれたルートです(③)。冷蔵庫のない時代、唯一、生でも腐敗しないうちに運ぶことのできたサメ(通称「ワニ」)の通り道となったことから、「ワニの道」として知られます。

 高野町の西側は、神之瀬川によって土地が削られた峡谷で道は険しくなっています。この付近には3本の道があります。飯南町小田《おだ》の「県民の森」から高暮《こうぼ》の「藤渕橋《ふじぶちばし》」付近への道は、元登山道として維持されていたため歩きやすくなっています(④)。通称「上野峠《うえのたわ》」を越える道は、奥小田《おくおだ》の人がダム湖に釣りに行くとき通ったという話を聞きました(⑤)。

 飯南町小田の立石《たていし》から高暮ダムへ向かう道は、県境近くに「立石大仙神社」という祠《ほこら》があって、キューブ形の巨岩を祀《まつ》っています(⑥)。小田には「立石たたら」があり、祠も存在することから、多くの人が行き交ったことでしょう。

立石大仙神社(⑥の島根県側)

 高暮ダムは戦時中の1940年に建設が始まりました。工事には朝鮮人労働者が動員されており、この道を通り過酷な作業から逃げ出す人もいたといいます。ダム湖のそばには工事で犠牲になった労働者の慰霊碑が建ち、通るたびに折り鶴が新しくなっています。

高暮ダム朝鮮人慰霊碑(⑥の広島県側)

 中国山地の分水嶺を越える道は、古くから山陰と山陽を結ぶ交通路としての役割を担ってきました。たくさんある道の一つ一つに歴史があるのです。