第51話 北海道移住と山陰移住会社
中安恵一 専門研究員
(2022年10月4日投稿)
明治新政府は、よく知られているように、殖産興業《しょくさんこうぎょう》政策の一環として北海道開拓を行いました。これにより、職を失った士族や、村で農業・漁業に従事する人々など全国から多くの人々が北海道へ渡りました。ここでは、近年研究が進んでいる山陰の農業従事者の団体移住について、紹介したいと思います。
島根では、松江の出雲農場(鈴木農場とも)や大田の山陰移住会社といった民間団体の存在が知られています。山陰移住会社は、安濃《あんの》・邇摩《にま》両郡の有志により1895年(明治28)に設立され、地元を中心に移住者を募って、彼らを小作人として北海道で農場経営を行おうとしました。
倶知安《くっちゃん》(現:北海道虻田《あぶた》郡倶知安町)の原野310万坪余の貸与を北海道庁から認可された山陰移住会社は、貸与期間の10カ年を事業期限と定め、最初の3年間で200戸の移住を目標とします。
実際には、1898年末の段階で石見111戸、因幡33戸、伯耆26戸が同会社農場へ移住したようです。経営の歴史的な評価はいまだ定まっていませんが、いずれにせよこうした団体の活動は、山陰からの北海道移住史上、見逃せないものといえます。
そのような中、このたび本会社関係史料が新たに確認されました(写真参照)。これは邇摩郡五十猛村(現大田市五十猛町)で廻漕《かいそう》業や瓦製造業を営んでいた太田助太郎が残した史料です。当時、彼は山陰移住会社の監査員でもありました。
史料の一つに1901年(明治34)の視察記録があります。50日弱にわたる現地での視察を記したこの記録には、土質の調査結果や関係者との懇談等の内容など、経営状況が事細かに報告されています。倶知安への視察はこれまでにも、衆院議員であった恒松隆慶による視察が知られていました。
会社設立初期の視察であった恒松の視察に対し、太田の視察は事業の中後期に当たり、農場経営が本格化していた頃の様子を知ることができます。今後、山陰の人々の北海道移住の具体像がより明らかになることが期待されます。
ところで、この視察記録は現地だけでなく、道中についても詳細に記録しています。復路は鉄道を利用し青森から東京経由で帰郷しており、日光・伊勢といった神社仏閣参詣や上野の博物館見学、東京では石州半紙の景気の動向調査も行っています。
道中に往復31日をかけていることからも分かるように、太田はこちらにも力を入れていたと見られます。商業経営者として、また旅行者としての顔もうかがうことのできる、興味深い史料といえるでしょう。