第52話 正倉と律令国家
橋本 剛 研究員
(2022年10月11日投稿)
奈良国立博物館では、毎年秋に「正倉院展」が開催されています。この展覧会では、東大寺正倉院に納められた聖武天皇ゆかりの工芸品など数々の名宝が陳列されることもあり、多くの人で賑わいます。こうした影響もあってか、「正倉」と聞いてこの正倉院を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
ところが、古代史料に表れる正倉の用例に照らすと、東大寺正倉院はむしろイレギュラーな存在です。というのも、古代においてクラを意味する語は「倉」の他に「庫」や「蔵」がありますが、「倉」はイネを納めるクラに対して使用されました。また、正倉には水田に賦課された税である田租、春夏にイネを貸し付け秋に利息とともに回収する出挙《すいこ》稲などが収納されましたが、その多くはそのまま地方行政の財源となります。そのため「正倉」は、主に地方の役所に設置されるイネを納めるクラを指したのです。
733年に完成した出雲国風土記には、出雲国内15カ所に正倉が存在したことが記されています。ただし現存する風土記のうち、正倉の記載があるのは出雲国風土記に限られます。当時の山陰には、東アジア情勢の緊迫化により中央から節度使という使者が駐在しており、いわば軍事態勢下でした。そのため、軍粮《ぐんりょう》となるイネを納める正倉の記載が必要とされたと考えられます。
その15カ所の正倉のうち、意宇《おう》郡山代《やましろ》郷に所在したとされる正倉跡(松江市大庭町)が発掘調査で明らかになっています。それによれば、南北200㍍、東西180㍍もの空間に、いくつもの正倉が整然と立ち並んでいたということです。こうした大規模な倉は、律令《りつりょう》国家の成立に伴って出現し、災害や飢饉《ききん》などの際にはそのイネが人々に支給されるなど、扶助機能も担いました。そのため正倉は、単なる収納施設としての役割を超えて、国家による支配を示す象徴的な建造物でもありました。
正倉のイネは、古代を通じて必ずしも順調に収取・蓄積されていったわけではありません。冒頭でも触れた8世紀半ばの聖武天皇の時代には、国分寺造営によって日本国内のイネの半分が消費されたという記録も残っています。そして9世紀以降、本来地方で消費されるはずであったイネは中央財源化していき、さらにはイネの収取そのものが滞るようになりました。こうして正倉は徐々にその規模が縮小されていきますが、それはまさに、律令国家が求心力を失い弱体化していく過程でもあります。正倉やその収納物であるイネは、古代律令国家のバロメーターだったのです。