第54話 東西を結ぶ鎌倉御家人
田村 亨 研究員
(2022年10月25日投稿)
大河ドラマ「鎌倉殿《かまくらどの》の13人」では、鎌倉幕府《かまくらばくふ》の御家人《ごけにん》たちが繰り広げる政争がドラマチックに描かれています。当然ながら、その主たる舞台は鎌倉と東国です。しかし、鎌倉時代の御家人は、むしろその活動基盤が鎌倉や東国にとどまらない点にこそ、大きな特徴があると言えます。
例えば、戦国時代の大名を思い起こすと、尼子《あまご》氏ならば出雲国《いずものくに》、毛利《もうり》氏ならば安芸国《あきのくに》、あるいは勢力を拡大して中国地方など、特定の国や一定の隣接したエリアと結びつけてイメージすることができます。
鎌倉時代の御家人たちも、拠点となる所領(本貫地《ほんがんち》)を持つという意味では同じですが、戦争・政変での恩賞《おんしょう》などによって、遠く離れた地域にも点在する形で所領を持っていた点が特徴的です。
鎌倉時代は、京都に住む天皇・上皇《じょうこう》や貴族、有力寺院・神社が列島各地に荘園を持ち、京都を中心に人やモノが行き交う「荘園制《しょうえんせい》」が社会の土台としてしっかりと機能した時代でした。武士たちも、京都や鎌倉を軸にして各地の所領に一族や家人《けにん》を配置することで、遠隔地の所領支配を実現することができたのです。
列島各地に所領を持つということは、さまざまな地域とつながりを持つということも意味します。例えば、鎌倉時代の終わり頃の古文書によると、出雲国の大西荘猪尾谷《だいさいのしょういのおだに》(現在の雲南市加茂町)に所領をもった飯沼《いいぬま》氏が負担した課役《かやく》として、「伊勢役夫工米《いせやくぶくまい》」「杵築御三会《きづきごさんえ》」「諏訪《すわ》御頭役《とうやく》」の三つが挙げられています。
「伊勢役夫工米」とは、伊勢神宮《いせじんぐう》の式年遷宮《しきねんせんぐう》に関わる費用を諸国に賦課《ふか》したもので、各国の御家人たちも負担しました。「諏訪御頭役」とは、信濃国《しなののくに》(現在の長野県)の一宮《いちのみや》・諏訪大社の祭祀《さいし》に関わる役であり、「杵築御三会」は杵築大社(出雲大社)の重要な祭礼「三月会《さんがつえ》」に関するものです。
飯沼氏は信濃国を拠点とした御家人でしたので、諏訪社祭礼の役を務めたのですが、遠く離れた出雲国にも所領を持っていたために、杵築大社の祭礼にも関わることになっていたのです。
鎌倉時代には、出雲の国衙《こくが》(国の役所)や守護《しゅご》(国内の御家人統率・治安維持を担う有力御家人)主導の下、杵築大社の祭礼での役負担に関して輪番《りんばん》制(順番に役をつとめるローテーション)が定められます。御家人たちが列島各地でさまざまな仕事を担う状況が生まれていたために、各地での負担をしっかりと整理する必要に迫られたと考えられます。
出雲地域には、飯沼氏以外にも信濃国出身の御家人の所領が多く確認できます。中世史研究者の佐伯徳哉《さえきのりや》氏は、江戸時代の出雲地方の地誌『雲陽誌《うんようし》』に登場する諏訪明神《みょうじん》が、特に信濃国出身御家人の所領周辺に集中していることから、諏訪明神が御家人たちによって勧請された可能性を指摘しています。鎌倉幕府の御家人たちの存在は、東西の信仰・文化を結びつける意味も持ったのでしょう。