第56話 歴史的建造物を残すー石見の碩学 石田春律の居宅から
角田徳幸 古代文化センター長
(2022年11月8日投稿)
少子・高齢化が進む現代社会では、空き家は大きな社会問題です。島根県では、空き家の数は4万8千戸余を数え、住宅総数の15%以上にもなるといいます。建物は、空き家になると荒廃が進み、やがては失われてしまいます。その中には、歴史的建造物でありながら、文化財としては未指定の建物も少なくありません。
江津の市街地から、国道261号を車で3㌔ほど走ると、江津市松川町に入ります。国道沿い開けた田んぼの山手に家が点在する農村ですが、かつては江の川の水運を生かし、たたら製鉄などで栄えた所です。
江戸時代、松川町の西側地域は那賀郡太田村と呼ばれていました。この太田村の庄屋だったのが、石田春律《いしだはるのり》です。春律は、天明の大飢饉《だいききん》(1782~88年)の際には、サツマイモの栽培を勧めて困窮する農民を救ったのをはじめ、農地開発や農業技術の普及に務め、村内にあった桜谷鈩《さくらだにたたら》も経営しました。
また、石見の歴史や風土を記した『石見八重葎《いわみやえむぐら》』のほか、農業技術書の『百姓稼穡元《ひゃくしょうかしょくげん》』、たたら製鉄について記した『金屋子縁記抄《かなやごえんぎしょう》』など多くの著作を残したことで知られています。春律の見識の広さ、深さは目を見張るばかりで、まさに〝碩学《せきがく》〟と呼ぶにふさわしい文化人でした。
松川町太田地区には、石田春律の居宅跡があります。豪壮な石垣で囲まれた広い敷地には、彼が暮らした居宅が20年余り前まで残っていました。建物は、庄屋の屋敷としての風格を持ち、春律自らが1804年(文化元)に建てたことが部材に墨書されています。使われた木材は、30坪程度の住宅なら12軒分にも相当するという大きな建物で、大黒柱は樹齢200年以上にもなる欅《けやき》の巨木です。
ところが、空き家になってからは雨漏りで傷みが進み、床から竹が生えるほどであったといいます。そのままであれば、今頃は姿を消してしまったことでしょう。
この歴史的建造物は、出雲市斐川町に移築され、現在でも実際に見ることができます。1996年(平成8)、店舗として利用できる古民家を探していた玉木製麺の玉木顯さんの目に留まったのがきっかけです。玉木さんの依頼で、古民家の移築を手がける大工棟梁《とうりょう》の小松原峰雄さんが足かけ3年ほどをかけて、移築復元工事を進めました。
傷んだ材を取り換えたり、店舗として利用するため玄関の位置を変更したりなど、一部に改変はありますが、柱や梁《はり》など7割は古材が使われています。〝波積屋《はずみや》〟という店名は、石田家にちなんだもので、同家の屋号から名付けられました。 歴史的建造物は、建設された場所に、そのままの姿で伝えられるのが理想です。しかしながら、文化財指定を行って保存できる建物にも限りがあります。石田春律の居宅は、こうした建物をどのように残し、そして生かすのかを考える上で、参考となる事例といえそうです。