第58話 風土記はどのように伝えられてきたのか
野々村安浩 特任研究員
(2022年11月22日投稿)
『出雲国風土記』(以下、『出雲』)など、奈良時代の風土記は地域の山野河海の様子や生息する動植物を記した「地誌」、国政調査書的な書物とみられています。
『古事記』『日本書紀』(以下『書紀』)などが、天皇を中心とする全国支配の由来を記す歴史書であるのに対して、この時代には天皇による全国の地勢把握のために、713年に風土記編纂《へんさん》命令が出されたのです。ただし、平城京のある大和国(奈良県)の風土記は編纂されなかったとみる説もあります(明らかにその断片であるとする逸文《いつぶん》も発見されていません)。
その後、風土記はどのような運命をたどったのでしょうか。平安時代の925年に、朝廷は風土記を再度奏上させる命令を出しました。そこには、諸国に風土記があるはずだ、なければ国内を調査して進上せよ、とあります。これは、奈良時代に報告したものがすでに朝廷では散逸していること、各国には奈良時代のものの控えが保管されているはずとの事情が想像されます。
一方、正史である『書紀』は720年の編纂直後から繰り返し、朝廷の役人に対して講義(講書)が行われています。風土記はそのようなことはありませんでした。しかし、『書紀』の講義内容を伝える、鎌倉時代の注釈書『釈日本紀』(以下、『釈紀』)にはいくつかの国の風土記の文章が断片的に引かれ、そこに風土記が利用されています。『出雲』の場合はどうでしょうか。
『書紀』の「国譲り神話」の天日隅宮《あめのひすみのみや》を造る場面で、『釈紀』は『出雲』意宇郡楯縫《たてぬい》郷条を「布都怒志命《ふつぬしのみこと》之天石楯置(量)給」と引用しています。しかし、書写年が最古の細川家本『出雲』(慶長2年・1597年)では「布都怒志命之天名楯縫直給」と一部用字が異なります(太字の文字)。
また『出雲』楯縫郡条も引いていますが、数カ所の文字が異なります。このほかにも『書紀』神代の巻の八重垣の歌には『出雲』冒頭部分、『書紀』のイザナキの黄泉《よみ》の国脱出に見える「泉津平坂《よもつひらさか》」には『出雲』出雲郡宇賀《うか》郷条の一部「黄泉の坂」を引用しています。
このように、『書紀』講義の際に、『書紀』の語句の傍証資料として『出雲』本文が部分的に利用されているのです。しかし、そこには用字が違っているところもあります。
これについて、細川家本か、それに先行する写本がそれ以前の『出雲』写本の文字を誤写している場合も考えられますが、上代文学者の青木周平氏は細川家本など現在に伝わる『出雲』とは異なる特徴を持つ、中世の写本の存在を想定する説を出されています。
『出雲』には、成立の733年から細川家本1597年までの間がどのようにつながるのか、大きなミッシングリンクがあります。青木氏は「風土記が中世の山を越えるのは、容易なことではない」と述べています。