いまどき島根の歴史

第60話 平安時代の「国力」

橋本 剛 研究員

(2022年12月6日投稿)

 「いっそのこと、伊予守《いよのかみ》に推挙してやるか」―これは5月15日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での、源頼朝の発言です。壇ノ浦で平家を滅ぼした弟・義経に対する恩賞として、国司への任官について議論している場面でした。この推挙を受けた後白河法皇《ごしらかわほうおう》も、「九郎(義経)の武功は伊予守こそふさわしい」と応じます。

 伊予守とは、現在の愛媛県にあたる伊予国の国司のことなのですが、当時60カ国余りあった国の中で、なぜ鎌倉からも遠い伊予国が選ばれたのでしょうか。ドラマでは説明がなかったため不思議に思った方がおられたかもしれません。

 結論を述べると、当時の伊予国がトップクラスの「国力」を誇っていたからです。ここでいう「国力」とは税収や国司の収入を基準としたもので、伊予国はその最上位に位置していました。つまり、伊予国司は数ある国司の中で最も格式ある地位であり、それに任命されることはとても名誉なことだったのです。

 現代でも「住みたい都道府県ランキング」のようなものがありますが、伊予国は当時の「国司になりたい国ランキング」でトップだったといえるかもしれません。

 こうした諸国の「国力」を知る上で参考になるのが、平安時代後期の史料に頻繁に登場する「熟国《じゅくこく》」(「要国」とも)や「亡国《ぼうこく》」という表現です。熟国は安定した税収が確保できる国、亡国は税収が少なく国司にとって統治が難しい国を指しました。これらに明確な基準はなく、時期によっても変化するため、あくまで目安として理解すべきものですが、瀬戸内周辺に熟国が、東国に亡国が多いという傾向があります。

平安時代後期の熟国・亡国の分布

 では、島根県域の出雲・石見・隠岐国はどうだったのでしょうか。出雲国については12世紀の史料に熟国であると記されています。その他の状況からみて伊予国クラスとまではいきませんが、12世紀段階では出雲国も比較的「国力」の高い国だったようです。

 一方、石見国と隠岐国は亡国でした。11世紀の「北山抄《ほくざんしょう》」という儀式書によれば、4年間の国司の任期のうち、両国は3年間分の税を納めればよいとされています。一見、国司にとっては喜ばしいことのようですが、それだけ税収が見込めなかったということでしょう。出雲国と石見国のように隣接している国でも、その「国力」には大きな差があったのです。

 ところで、実際に国司となるのは中級官人層ですが、熟国や亡国に関心があるのは彼らだけではありませんでした。摂関家などの上級貴族も、身近な人物をいかに熟国の国司に就かせるかという点に心を砕くようになります。

 そのため、貴族社会の中で各国の「国力」はある程度共有されていたはずです。まだまだ不明な点もある「国力」ですが、都に暮らす貴族がその地域をどのようにイメージしていたかを考える上で、一つの参考になるのではないでしょうか。