第63話 俵國一博士生誕150年-島根が生んだ金属学の泰斗
角田徳幸 古代文化センター長
(2022年12月28日投稿)
ロシアによるウクライナ侵攻や安倍元首相銃撃事件など、衝撃的な出来事が続いた今年も残すところ、あと4日となりました。幸い山陰地方では、大きな事件や災害はありませんでしたが、今年2022年は1872年(明治5)3月14日に発生した浜田地震から、ちょうど150年目にあたります。
浜田地震は、死者数が500人を超す大災害でした。その半月あまり後、被災地の浜田で生まれたのが、島根県出身で初めて文化勲章を受章した俵國一《たわらくにいち》博士です。地震の際、俵家は半壊しましたが、身ごもっていた母みなは落ちかけた棟木の陰で助かったことから、國一は子どもの頃〝地震子〟と呼ばれたそうです。
俵國一は、郷里にあった島根県立第二中学校、松江中学校などを経て、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)へと進みます。大学では、近代製鉄の基礎を築いた野呂景義《のろかげよし》らに学び、1897年(明治30)に採鉱冶金学科《さいこうやきんがっか》を卒業すると助教授となりました。
そして、2年後には、ドイツのフライベルク大学に留学します。同大学で俵が師事したレーデブア教授は、野呂をはじめ明治日本の数々の金属学者を育てたほか、官営八幡製鉄所《かんえいやはたせいてつしょ》の建設も指導したことで知られていました。
1902年(明治35)、留学を終え帰国した俵は、東京帝国大学教授として鉄冶金学講座を担当します。日本で初めて金属顕微鏡を導入し金属組織学の研究を進め、1910年(明治43)に出版した『鉄と鋼 製造法及び性質』は鉄鋼概論の教科書となりました。現代日本の鉄鋼業と鉄冶金学は、俵が育てた研究者、技術者によって築き上げられたといわれています。金属学研究の泰斗《たいと》である彼が〝日本鉄鋼技術教育の父〟とも称されるわけは、そこにあります。
俵は、東京帝国大学退官の翌年、1933年(昭和8)に『古来《こらい》の砂鉄製錬法《さてつせいれんほう》』を出版しました。これは、1898年(明治31)、まだ駆け出しの研究者であった彼が、当時稼働していた広島県・鳥取県・島根県のたたらを調査した成果を基にしたものです。その技術が体系的にまとめられており、たたら研究の〝バイブル〟として今なお高い評価を受けています。
同書で俵は、近代化の中で衰退しつつあった、たたら製鉄がやがては失われてしまうことを憂慮して調査を行った旨を記しています。浜田生まれの彼にとって、たたらは身近な存在であり、西洋の近代製鉄技術を学んだことで、その独自性に気付いたのかもしれません。
あるいは、子どもの頃のたたらへの関心が彼を金属学の世界にいざなったのかもしれません。俵の伝統技術に対する探究心は、もう一冊の名著『日本刀の科学的研究』としても結実しています。
今年、生誕150年を迎えた俵國一。生涯を通し〝鉄〟の研究に邁進《まいしん》した俵は、晩年、「研究というものは難しいものでして一度止めたらなかなか後はできません。…(中略)…これでよいと満足したら、もうそれでお仕舞なものでございます。その後にはもう進歩はありません」と語ったといいます。彼の仕事の輝きは、今日も変わるところがありません。