いまどき島根の歴史

第64話 隠岐の銅剣 

東森 晋 専門研究員

(2023年1月10日投稿)

 日本で本格的な水稲耕作が始まった弥生時代。弥生文化を代表するものに、青銅器があります。とりわけ、島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市大社町杵築東)特別展示室の壁面に並べられた国宝・荒神谷遺跡出土銅剣358本は、見るものを圧倒する迫力があります。荒神谷青銅器群の陰に隠れるように、隣の展示ケースには、県内各地の弥生青銅器と並んで、竹田遺跡(海士町)の銅剣がひっそりと展示されています。

竹田遺跡の銅剣(島根県立古代出雲歴史博物館提供)

 竹田銅剣は、1968(昭和43)年10月に、桑園造成のために削られた標高約30㍍の丘陵斜面で偶然発見されました。発見したのは海士中学校郷土クラブ員で、一緒に弥生土器や鉄剣なども採集しています。隠岐郡初の弥生青銅器は研究者に注目され、1970(昭和45)年3月に、日本考古学協会によって発掘調査が行われました。その結果、銅剣の発見場所が、幅3㍍、深さ1.6㍍、長さ10㍍以上の溝の中だったことが明らかになりました。

 溝の中から煮炊きに使用された痕が残る土器や、竪穴住居の土葺屋根に使われたとみられる粘土の塊が出土しており、溝の内側には弥生時代のムラが存在したと考えられます。また、出土した土器は、全て弥生時代後期(約1800~2000年前)のもので、この頃まで銅剣はムラの中で保管されていた可能性があります。

 竹田銅剣は、発見時すでに剣身の下半17.1㎝しか残存していませんでした。しかし、吉田広氏の研究報告で、荒神谷銅剣と同じ弥生時代中期に作られた、細身・薄手で一回り小さく、脊《むね》(心棒)両側の高い位置に丸い穴の開く、より古いタイプの銅剣であることが示されました。同様の銅剣は、広島県、鳥取県・石川県で見つかっています。このうち、西大路土居遺跡(鳥取市)の銅剣は、剣身下半のみ残存し、弥生時代後期後半まで保管されたものとみられます。

銅剣比較図

 竹田銅剣が出土した溝は、規模や埋没状況、立地などから田和山遺跡(松江市)のように、丘陵上に掘られた環壕《かんごう》の可能性が考えられます。山陰地方では、丘陵上の環壕の多くは弥生時代前期から中期に造られます。後期の環壕は竹田遺跡のほか、西塔寺遺跡(海士町)、下安曇遺跡・尾高浅山遺跡・日下寺山遺跡・妻木晩田遺跡洞ノ原地区(以上米子市)で確認されています。

 竹田銅剣は、小さく目立たない資料ですが、銅剣そのものや遺跡の特徴から、弥生時代の隠岐地域の交流を考えるうえで、大きなヒントを与えてくれます。