第65話 「海の幸」供給し続けた隠岐国
久保田一郎 専門研究員
(2023年1月17日投稿)
隠岐で宿を探す時、最初に飛び込んでくる広告の見出しは「海の幸」。私がいつも腹をすかせているからそういう情報が飛び込んでくるのかもしれませんが、釣り具を抱えて同じフェリーに乗る人たち、同じ旅館で魚介料理に盛り上がるお客さんたちも同じ気分のようです…。海産物を前面に出す隠岐のイメージ戦略が見事に当たっているからでしょう。
こうしたイメージの源は古代までさかのぼります。古墳時代には、海士《あま》町の地名の元になっている海民集団「海部《あまべ》」や「阿曇部《あずみべ》」が隠岐に居住し、大和へ海の幸を献上していました。奈良時代になると、都には万を数える役人などの都市生活者が住むようになっていました。政府は官僚機構を支える大勢の役人たちを養わなければなりません。
大和の支配者層が目を付けたのが隠岐でした。隠岐国から都へ、膨大な海産物が送られていたことは、貢納物に付けられた荷札木簡《にふだもっかん》が証明しています。そこに書かれた品目はほとんどが海産物、中でも干しワカメでした。隠岐と海産物のイメージが結びつくようになったのは、この時代の可能性が高いでしょう。
奈良時代、隠岐の海産物は、荷札に書かれた品目を見ると海藻の比率が高かったのですが、平安時代になると主役が交代します。
『延喜式』(927年)によれば、「東《あずま》」(おそらく房総半島方面)、佐渡などの諸国と並んで、朝廷の大きな行事には鰒《あわび》を献上、「隠岐鰒」という地名付きで呼ばれた鰒が記録されています。『新猿楽記《しんさるがくき》』(11世紀半ば)や『庭訓往来《ていきんおうらい》』(14世紀半ば)で書き上げられた諸国の名物の中に、隠岐の名物として「鮑《あわび》」が挙がっています。隠岐の鰒が、中世には他の地域を圧して日本一と評価されていたことが分かります。
江戸時代になると、幕府は輸出品(「俵物《たわらもの》」)の材料として隠岐産鰒を重視しました。隠岐は日本海側に位置するにもかかわらず、写真2のような内湾、あるいは島の東-南側の海域など、冬でも季節風の影響を受けることなく操業ができる場所があり、この点が大きなメリットだったようです(田中豊治氏)。
19世紀初めには「俵物」専任の代官が隠岐を回って、村ごとにノルマを課す、他の地方の漁民を呼び寄せて潜水漁をさせる、などの手段で、増産をはかります。それが「隠岐鰒」をさらに有名にするのに一役買ったかもしれません。
しかし、幕府に強制された乱獲のため、頻繁に資源が枯渇することもありました。時の政権が地方の資源に目を付けることと、資源収奪は表裏一体です。
古代でも、似たような資源収奪が起こったのではないでしょうか。古代の都からは、地方からの貢納物に付けられた荷札木簡が大量に出土していますが、発掘された荷札は貢納物の一部に過ぎないはずです。あまりに多すぎる荷札木簡を見ると、そら恐ろしさを覚えることがあります。