いまどき島根の歴史

第66話 石見銀山周辺の鋳物師・山根氏

目次謙一 専門研究員

(2023年1月31日投稿)

 昨年、世界遺産登録15周年を迎えた「石見銀山遺跡とその文化的景観」(大田市)。約500年前の1527(大永7)年に開発が始まった石見銀山では、鉱山町の発展により、鉄で作られた鉱山道具や人々の生活用具に対する需要が大きく増えました。例えば、粉砕した銀鉱石から鉛を用いて銀を分離する「灰吹法《はいふきほう》」には、鋳物の鉄鍋《てつなべ》が使われています。これらを生産した鋳物師《いもじ》は、どのように活動したのでしょうか。

 その一端は、石見国の鋳物師・山根氏に関連する古文書から知ることができます。1533(天文2)年、川本(川本町)の領主小笠原氏は山根氏に対して「鋳物師大工職《だいくしき》」を認めており、当時、既に山根氏が鋳物師として活動していたことが明らかです。

 山根氏は1543(天文12)年、大名・大内氏の家臣に、銀山がある邇摩郡《にまぐん》内での鋳物商売や「鋳物司」を、51(同20)年には領主・温泉氏《ゆのし》から、日本海の要港・温泉津《ゆのつ》(大田市)の「鋳物商売頭領《とうりょう》」を認められています。自身の鋳物づくりや販売を大名や領主に公認してもらったのです。その対象地域は、先の川本に加えて邇摩郡・温泉津といった銀山の周辺です。これら一帯が山根氏の活動範囲と考えられるでしょう。

石見銀山遺跡で出土した「灰吹法」使用の鉄鍋(大田市教育委員会所蔵・提供)
上空から見た石見銀山と鉄鍋の出土地(大田市教育委員会提供)

 当時、全国の鋳物師たちをまとめる地位にあった、京都の公家《くげ》真継氏《まつぎし》は、営業を保証する見返りに自身へ税を納めるよう、各地の鋳物師たちに働きかけていました。

 石見国では、小笠原氏が真継氏に対して「私の家臣が石見国の鋳物師たちを以前からよく承知している」と山根氏を売り込んでいます。これが功を奏したのでしょうか。1550(天文19)年、真継氏は山根氏を「石見国鋳物師頭領」に任命し、その依頼に応じて「証跡」(営業権保証文書)を与え、石見国の鋳物師たちからの税を集めてくるよう求めました。

 この後、尼子氏と毛利氏の銀山争奪戦が激しくなるまでの数年間、山根氏は真継氏に税を納めています。

 注目されるのは、山根氏が「証跡」のお礼を銀山の産出と推定される銀で用意し、京都の真継氏へ届けた点です。山根氏にとって「証跡」には自身の格付けを上げるメリットがあったため、それに釣り合うよう銀を入手したのでしょうか。

 鉱山町の発展による経済効果が鋳物づくりへ及ぶ中で、山根氏は真継氏との関係を利用し、活動を広げていったと考えられます。