第67話 田和山遺跡の土器と祭祀
岩本真実 特任研究員
(2023年2月7日投稿)
松江市立病院の横にある田和山《たわやま》遺跡は全国的に有名な弥生時代の遺跡です。最盛期の弥生時代中期後半には丘陵頂部を3重の環壕《かんごう》が囲んでいます。他の多くの環壕集落と異なり、環壕の内側には9本柱の掘立柱《ほったてばしら》建物1棟と柵しかなく、当時の住居である竪穴《たてあな》建物などは環壕の外側に建てられていました。
3重もの環壕は人々の暮らしではなく、いったい何を囲んでいたのでしょう。田和山遺跡の性格はこれまでもさまざまに議論され、中世の山城のように弥生時代の戦いと関係させる考えや、祭祀《さいし》の場とする考えなどがあります。これらの説は環壕から出土した石鏃《せきぞく》や、頂部に特殊な建物のみがある状況などから指摘されています
今回は、これまで着目されることのなかった土器から考えてみましょう。
最盛期の環壕は頂部から順に第1環壕、第2環壕、第3環壕と呼ばれ、その外側に竪穴建物や掘立柱建物など居住に関係する遺構がありました。円グラフはそれぞれの遺構で出土した土器を種類別に集計したものです。
土器は頂部に近いほど出土量が多く、頂部で用いられた土器が落ちてきたと考えられます。頂部に近い2条の環壕では壺《つぼ》がとても多く、環壕の外側では甕《かめ》や鉢《はち》が多いことがわかります。田和山遺跡の最盛期に近い時期の他の遺跡の居住関連遺構と比較しても、やはり田和山遺跡の環壕は壺が多いようです。
弥生時代中期の壺は粘土ひもや文様で飾りたてられます。煮炊きに使い、あまり飾られない甕とは使い方だけでなく製作の手間も全く異なっているのです。壺は形や装飾が地域ごとに異なるため、集団のアイデンティティーを示すという見解もあります。田和山遺跡の頂部では、壺が集団にとって重要な役割を果たしていたのではないでしょうか。
田和山遺跡の環壕では出雲型とも呼ばれる銅剣を模した石剣も出土しており、限られた人たちが参加する荒神谷遺跡などでの青銅器の祭祀とは別に、田和山遺跡では集落の人々が参加する祭祀が行われていたとする研究もあります。田和山遺跡の頂部では、地域を象徴する銅剣を模倣した石剣とともに、同じく地域的特徴を持つ壺を用いた祭祀が執り行われていたと想像されます。
とはいえ、田和山遺跡の環壕では石鏃も多く出土し、朝鮮半島の楽浪郡《らくろうぐん》のものとされる硯《すずり》片も見つかっています。実戦あるいは模擬戦などの戦闘的な側面や、広域交流の拠点といった多様な性格を兼ね備えた場であったのかもしれません。これからもさまざまな角度から研究が必要な遺跡であることは間違いありません。