いまどき島根の歴史

第68話 島根の近代鋳物師・遠所家

土橋由奈 特任研究員

(2023年2月21日投稿)

 松江藩には、鋳物《いもの》の製造や販売を行っていた釜甑方《ふそうかた》という直営の役所がありました。明治時代以降、その流れをくむ形で銅器の鋳造《ちゅうぞう》を営んでいたのが遠所家《えんじょけ》です。

 遠所家の詳しい来歴は不明ですが、同家の古文書に釜甑方の役職任命書などが残っていることから、少なくとも幕末ごろには釜甑方の鋳造に携わっていたようです。明治時代に入ると釜甑方は廃止され、工場跡地や道具・鋳物製品などが民間に払い下げられます。その払い下げ先の一つに遠所家も含まれていました。その後、同家は1889(明治22)年に松江市乃木《のぎ》で鋳造所を開業します。

 遠所家の古文書の中には、明治~昭和時代に受注・制作した鋳造品の覚書《おぼえがき》(メモ)が残されています。今回はその覚書から、遠所家がどんな鋳物を作っていたのか探ってみましょう。

 まずは戦前の作品です。明治~昭和初期にかけては花瓶・砂鉢《すなばち》などの花器《かき》や茶道具を多く作っており、博覧会や共進会《きょうしんかい》と呼ばれる展覧会に出品していました。博覧会・共進会は、事業者の出品を通して産業を奨励しようという明治政府以来の殖産興業《しょくさんこうぎょう》政策の一環でした。遠所家は、各地の展覧会へ出品することで全国に販路を拡大していったようです。

1922(大正11)年の平和博覧会に出品された砂鉢の写真。美しい装飾に展覧会隆盛時の華やかな雰囲気を感じられる(松江歴史館写真提供)

 遠所家は地域の鋳物も手がけていました。特に多かったのが擬宝珠《ぎぼし》(橋や寺社の欄干《らんかん》に付ける飾り)です。他にも、学校や役場に設置する半鐘《はんしょう》(小型の釣鐘《つりがね》)、鳥居や忠魂碑《ちゅうこんひ》など大型の鋳造品も請け負っていました。

 戦後は、島根県内の銅像の銘板《めいばん》や碑文、施設の銘板、記念碑、橋の擬宝珠などを制作していました。松江大橋や出雲大社祓橋の擬宝珠、島根大学正門の銘板、島根県民会館の文字板なども手がけていたようです。遠所家の鋳造所は2000(平成12)年に閉鎖され、これが島根の美術鋳物の終焉《しゅうえん》となりました。

現存している遠所家鋳造品の一つ、松江市千鳥町の小泉八雲記念碑。1967年完成(松江歴史館写真提供)

 花器・茶道具などの美術鋳物は、現代の一般家庭ではあまり見かけなくなりました。しかし、遠所家が地域の鋳物として作った作品は、今でもさまざまなところに残っています。日々の暮らしや風景にある鋳物、そしてその背景を知ることは、既製品であふれる現代において、あらためて「もの」が持つ力について考えるきっかけになると感じています。