第73話 黄泉の穴
平石 充 主席研究員
(2023年4月4日投稿)
黄泉《よみ》の穴、名前からしておどろおどろしい感じがします。これは『出雲国風土記』の出雲郡宇賀郷に記述されている伝説の穴です。黄泉の穴の由来について「夢の中でこの穴にたどり着いた人は必ず死ぬ、だから黄泉の坂・黄泉の穴という」と記されています。
また、入り口は約2㍍四方で、中にはさらに小さな穴があり、そこから奧は人が入ることはできないなど、詳細な記述があります。伝説はあくまで伝説として、島根半島に実在するどこかの洞窟を書いているようです。
さて、江戸時代にふたたび『出雲国風土記』が読まれるようになると、この穴がどこにあるのかが研究されるようになります。1717年に完成した『雲陽誌《うんようし》』という本では、出雲市奥宇賀町布施の山の中にある冥途《めいど》黄泉の穴(写真)が風土記の黄泉の穴にあたるとされています。
黄泉の穴について興味を持ったのは出雲の人たちだけではありません。『古事記伝』を記した国学者の本居宣長《もとおりのりなが》もその一人です。彼は門人である浜田藩士の小篠御野《おざさみの》を通して、その弟子の斎藤秀満がこの穴を訪れた時のことを、『玉勝間《たまかつま》』という随筆に書き留めています。
斎藤秀満が地元の老人から話を聞くと、「この穴からは毒気《どくけ》(今風にいえば毒ガスでしょうか)がのぼることがあり、触れるとたちまちにして息絶えるのだ」とのことでした。風土記の伝承とはちがい、もっと直接的に危険な穴であるとされています。
実は、これと似た話が鳥取県にも伝えられています。『伯耆志《ほうきし》』という本は、弓が浜の海中に大石があり、その穴から毒気が吹き出し、それにあたると必ず害がある、そこで黄泉津《よもつ》島といっていたのが夜見《よみ》島、さらに弓ヶ浜になったと説明しています。
黄泉と夜見は現代では同じ「ヨミ」ですが、奈良時代には別な発音だったと考えられています。従って、この二つが同じ発音になった平安時代より後の時代に、夜見から黄泉が連想されたのだと思われます。『伯耆志』も引用していますが、本居宣長が『古事記伝』に夜見=黄泉説を記したことが影響している可能性もあります。それでも、これらの事例から、江戸時代には「黄泉という場所は毒気が吹き出すたいへん危険な場所」と考えられていたことがうかがえます。
私は何度かこの黄泉の穴を見学に訪れていますが、いまのところ元気に暮らしています(幸い、夢に出てきたこともありません)。昔の人が黄泉をどのような場所と想像していたのか考える上で参考になる場所ですので、興味のある方は訪ねてみてください。