第74話 「国印」と古代の地方行政
橋本 剛 主任研究員
(2023年4月11日投稿)
写真①は、出雲国から朝廷へ送られた奈良時代の公文書。文字に重なるように捺《お》された印が鮮やかです。古代律令《りつりょう》制下では、各国が朝廷へ提出する文書類に国印を捺すことが義務付けられていました。これが正式な文書であることを証明する役割があったのでしょう。
こうした「国印」の制度は、701年の大宝律令の成立とともに開始されたものですが、文書行政を旨とする地方行政において必要不可欠でした。
国印誕生の余波は想像以上に大きく、例えば国名の問題があります。律令制下の国名は「出雲」や「下野」などすべて二文字で統一されています。けれども、例えば「下野」がもともと「下毛野」であったように、それ以前において三文字の場合もあったことはあまり知られていません。このような「国名の二文字化」は、実は国印と分かちがたく結び付いています。
写真②を見てもらえば分かりますが、出雲国の国印の印文は四文字で、右側が「出雲」、左側が「国印」です。このうち、各国とも「国印」の二文字は共通していますから、正方形の印面にバランスよく文字を配置するには、国名も二文字でなければならなかったというわけです(仮に三文字になると文字のサイズを小さくする必要がある)。つまり、「国名の二文字化」は、国印制度の開始が直接的な原因とも言えるのです。
ここで、886年に石見国で起こった国印を巡る事件に注目してみましょう。当時の石見国司の長官は、上毛野氏永《かみつけののうじなが》という人物でした。ところが、彼の政治に対して不満を持っていた同国邇摩《にま》郡司の伊福部安道《いふくべのやすみち》や那賀《なか》郡司の久米岑雄《くめのみねお》らによって、氏永は包囲されてしまいます。そして郡司らは氏永が保持していた国印を奪い、下級の国司に渡してしまったのです。
この事件から、地方行政における国印の重要性が分かります。国印を取り上げてしまえば、たとえ国司の長官であっても国務を遂行することはできないとう認識が、郡司の間で共有されていたのです。
また、国印を下級の国司に渡したということは、郡司らのターゲットは国司全体ではなく、長官の氏永のみだったことになります。本来の地方行政は、国司全員がともに関与する「共知《きょうち》」という原則がありました。
しかし、氏永はそれを破り、国務をほしいままにしていました。裏を返せば、国印を保持してさえいれば、独断で国務を運営していくことも不可能ではなかったということです。
今回は、古代の地方行政における国印とその影響力をみてきました。島根県古代文化センターでは、4月から「律令制下における地方行政の研究」という3年間のテーマ研究がスタートします。「国印」に限らず、国司を中心とした地方行政の実態解明に取り組んでいきますので、その成果にご期待ください。