いまどき島根の歴史

第75話 出雲国府政庁域の前庭はなぜ狭い

吉松優希 主任研究員

(2023年4月18日投稿)

 皆さんは、島根県立八雲立つ風土記の丘資料館(松江市大庭町)に展示されている1000分の1の古代の八雲立つ風土記の丘復元模型をご覧になったことがあるでしょうか。これは、八雲立つ風土記の丘周辺の奈良時代後半の様子を示したものです。模型には出雲国府などの官衙《かんが》や国分寺や山代郷新造院などの寺院、古代道、自然景観などが復元されています(写真①)。

(写真①)古代の八雲立つ風土記の丘復元模型

 出雲国府跡は近年の発掘調査によって、政庁域の様子が明らかになりつつあります。その結果、儀式を行う正殿のほか、東脇殿や前殿、前殿が廃絶した後に前庭を飾った石敷遺構などが明らかになっています。発掘調査を実施したのは、政庁域の東側にとどまり、西側の状況はまだ不明な状況です。

 通常、政庁域の建物は左右対称のコの字形に配置されます。東側の状況を基にすれば、出雲国府政庁域の想定復元ができるのです。復元はこれまでの研究や調査成果から、前殿が政庁域の中心にくる形を想定し、推定中軸線で反転したところ、政庁は東西63㍍、南北70.8㍍を範囲としたとみられます。政庁の規模は東西70~90㍍ほどになることが一般的とされており、出雲国府もその中で捉えることができるかもしれません(写真②)。

(写真②)出雲国府政庁域復元想定図(政庁推定中軸線で反転して復元。発掘調査で未検出の箇所は点線)

 ここで注目しておきたいのは、前庭空間の広さです。先の想定復元を基にすると東西25.8㍍の規模になります。この規模は国の下部組織である郡の役所、神門郡家の古志本郷遺跡、大原郡家の郡垣遺跡と比べても狭いのです。

 なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。その一因には地形的な制約が考えられます。出雲国府跡では、発掘調査の成果から13世紀に多くの地区で洪水の影響を受けたことがわかります。その中で唯一、政庁域の正殿や東脇殿周辺では洪水の痕跡がみられません。つまり、政庁域は出雲国府が所在する意宇平野の最も高所に位置しているのです。

 政庁域が国府の中でも最も重要な空間であることは疑いのないことですが、意宇平野の狭い高所に政庁域を設けたことが前庭空間などの狭さに起因しているのではないでしょうか。この問題は考古学だけでなく、古代史や歴史地理などさまざまな分野の研究から考えなくてはならない課題です。皆さんはなぜ出雲国府政庁域の前庭が狭いのだと思いますか。