いまどき島根の歴史

第76話 大城遺跡の弥生土器

東森 晋 専門研究員

(2023年4月25日投稿)

 鳥は人にとって身近な存在であり、自由に空を飛ぶ姿から、平和や知性、飛躍などの象徴として、さまざまな団体のシンボルマークに使われています。このような鳥をモチーフにした絵画や記号が使われる歴史は古く、島根県内でも弥生時代の銅鐸《どうたく》や土器の例が知られています。

 隠岐の島町西町にある大城《おおしろ》遺跡は、1965年ごろ、グラウンド造成中の丘陵で、郷土史家の藤田一枝氏が弥生土器を採集したことによって発見されました。藤田氏が採集した土器の一部を復元すると、現在隠岐郷土館で展示されている特殊な壺《つぼ》がありました。

 帯を貼り付けた丸い胴に、コップのように開く大小複数の口が付けられ、接続部分にはそれぞれ段が作られています。現在の岡山県、吉備《きび》地域の土器に似た、島根県では珍しい形ですが、この壺の最大の特徴は、肩を飾る鳥形の文様にあります。

 弥生時代の終わりごろ、島根県では大田市以東の地域と海士町で、算盤玉《そろばんだま》のような形にスタンプを使って連続した文様を付けた壺が、祭りの道具として使われます。しかし、スタンプの形は円形やS字状がほとんどで、鳥形は大城遺跡の壺しか確認されていません。それではこの特殊な壺のスタイルはどこから隠岐の島にやってきたのでしょう。

 鳥形のスタンプは、銅鐸にみられる文様「連続渦文《れんぞくか(うず)もん》」がS字状文になり、それが岡山県北部地域で鳥形に変化したと考えられています。さらに、三角形の「鋸歯《きょし》文」や同心円のスタンプを加えた組み合わせが、岡山県北部と倉吉市で共通してみられます。鳥形は、真庭市から北の地域で右向きになっているので、大城遺跡の文様はこれらの地域から日本海を越えてもたらされたと推測されます。

大城遺跡と関連遺跡の位置(電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成)
鳥形スタンプ文の変遷(4,5は倉吉博物館提供)

 鳥形スタンプ文のある土器が発見されてから約30年が経過した1998年。運動公園整備に伴う発掘調査で弥生墳丘墓が発見され、大城遺跡は島根県指定史跡になりました。見つかった墳丘墓の貼石《はりいし》は鳥取県西部の墳丘墓とよく似ています。また、吉備地域で作られたとみられる土器片も出土しました。

 大城遺跡と同じ丘陵にある、隠岐の島町立西郷小学校の校歌2番に、次のような一節があります。

 「白雲なびく 大山を 波路のはてに 遠く見て」

 およそ1900年前の隠岐の人々も、対岸に見える大山を見ながら海を越え、鳥取県中部地域を経由して中国山地、さらにその先の吉備地域と交流をしていたのではないでしょうか。