いまどき島根の歴史

第77話 初夏の石見路をゆく

目次謙一 専門研究員

(2023年5月9日投稿)

 みずみずしい新緑が野山にあふれる季節となりました。旅情をかきたてられ、出かける予定をあれこれと考え、期待している方もいることでしょう。

 江戸時代も旅は盛んで、たとえば石見地域東部には、山陽地域から中国山地を越えて人々が訪れていました。現在と同じく山陽と山陰を結ぶ道は幾筋もあり、数多くの人々が旅の目的地に応じて道を選び、行き来していたのです。

 日本海に面した港町・温泉津《ゆのつ》(大田市)については、当時からその温泉が広く知られていました。1820(文政3)年、広島藩の役人を務めていた頼杏坪《らいきょうへい》は出雲国を経て旧暦4月10日に温泉津へ入り、湯治で7日間を過ごします。この旅を記録した日記「しおゆあみの記」によると、温泉にくりかえし入る合間をみて、かつての大名歌人・細川幽斎《ほそかわゆうさい》ゆかりの笹島《ささしま》や、鵜丸《うのまる》・沖泊《おきどまり》など宿に近い場所をあちこち訪れています。

 彼は優れた文化人でもあったため、その興味関心は十分に満たされたことでしょう。また、明日は温泉津を出発するという晩、浜田から来た人々が集まり宴会で楽しく過ごすさまを聞いており、温泉に入る人が各地から集まっていた温泉津のにぎわいを実感したことと思われます。

 4月18日、頼杏坪は住まいのある広島城下町へ向けて温泉津を出発しました。江の川沿いの谷住郷《たにじゅうごう》(江津市)まで行き、対岸の市山《いちやま》(同)でその日は宿泊します。翌日は八戸川《やとがわ》を渡りつつ南へ進み、中山峠《なかやまとうげ》・宇坂峠《うさかとうげ》(ともに邑南町)と険しい峠を越えていき、安芸国《あきのくに》境の宿場町・市木《いちぎ》(邑南町)に至ります。

北からみた宇坂峠方面(4月17日撮影)
温泉津から安芸国境の三坂峠までの行程=地理院地図(電子国土Web)の一部に地名を挿入し作成した

 その峠道は、日記に記された言葉を借りれば「道の左右両方に山が折り重なるような深い谷と高くそびえる山」を登っていくものでした。地図をみると、中山峠のふもととの標高差は300㍍以上あり、道の険しさが分かります。

 しかし、苦しい山道を進んでいく中でも、彼はところどころ谷川に石で架けられた橋や、流れ落ちる滝の数々に風情を感じ、興味深く眺めています。広島城下町の生活ではまず見られないであろう道中の景色が、強く印象に残ったのかもしれません。

 皆さんが旅に出かけた時、そうとは知らずに昔の人々が通っていた道を見たり、歩いたりしているのかもしれません。そう考えると、旅行先のきれいな景色も違って見えるのではないでしょうか。