第78話 出雲国守護・安達親長
田村 亨 主任研究員
(2023年5月16日投稿)
4月に実施された統一地方選挙に際しては、皆さんも県を束ねる知事の存在に改めて注目されたと思います。かつて、出雲国《いずものくに》・石見《いわみ》国・隠岐《おき》国といった「国」を行政単位とした時代には、「国司《こくし》」が国を束ねる役割を担ったわけですが、鎌倉時代になると、同じく国単位に「守護《しゅご》」と呼ばれる役職が設置されることになります。
源平《げんぺい》内乱の時代、平家《へいけ》軍と戦った源頼朝《みなもとのよりとも》の軍勢は、西国へ転戦するにあたって「惣追捕使《そうついぶし》」という軍事指揮官を任命します。やがて内乱が終わると、惣追捕使は戦時の指揮官から、平時の警察機能を担う「守護」として定着しました。
ただし、守護の役割は単に警察機構の長官にとどまりません。各国で大きな比重を占めるようになる鎌倉幕府の御家人《ごけにん》(地頭《じとう》)たちを束ねる役割も担ったため、例えば杵築大社《きづきたいしゃ》(出雲大社)の造営事業でもリーダーシップを発揮するなど、国衙《こくが》とともに国内をまとめる重要な存在となりました。
出雲国の場合、特に鎌倉時代の初め頃の守護については不明なことが多いのですが、近年になって、大阪府河内長野《かわちながの》市の金剛寺《こんごうじ》に残る八月十二日付の「関東御教書《かんとうみきょうじょ》」とよばれる古文書が、出雲国守護に関係する史料として知られるようになりました。今回は、この史料の内容を紹介したいと思います。
この古文書によれば、京都にある円勝寺《えんしょうじ》という寺院の荘園であった出雲国長海荘《ながみのしょう》(現在の松江市本庄町周辺)において、地頭の「員綱《かずつな》」という人物の狼藉《ろうぜき》行為が問題となっています。鎌倉幕府は、現地の調査を実施した上で、略奪物を返還し、地頭を交代させるように、「源三左衛門尉《さえもんのじょう》」という人物に命じています。文書が発給された時期は、おおよそ1210年前後、源実朝《さねとも》が将軍であった頃と推定されています。
国内の御家人たちを統括し、荘園でのトラブルがあれば現地で対応、場合によっては地頭の交代も差配する、まさに出雲国守護としての役割を果たしたと考えられるこの「源三左衛門尉」は、安達親長《あだちちかなが》という人物に比定されています。出雲守護としての在任期間は不明ですが、承久《じょうきゅう》の乱が勃発《ぼっぱつ》した承久3年(1221)まで守護であった可能性が高いと考えられています。
親長は、出雲や但馬《たじま》国(兵庫県北部)の守護を務めながら、日常的には京都で後鳥羽上皇《ごとばじょうこう》の命令に従って活動していました。そのため、承久の乱に際しては、後鳥羽方にくみして鎌倉軍に敗北しており、出雲国守護も交代することになったと考えられます。
承久の乱は、出雲国に限らず西国の守護たちの一斉交代をもたらし、各国の秩序を大きく変容させました。地域の人々も、急激な変化に翻弄《ほんろう》されたことでしょう。現代の統一地方選挙も熾烈《しれつ》ではありますが、あくまで民主的に、かつ非暴力的に行われることの価値を再認識させられます。