第80話 弥生時代のかんがい用水路
池淵俊一 古代文化センター長
(2023年6月6日投稿)
松江市鹿島町北講武《きたこうぶ》にある「多久《たく》の湯」は私もよく利用する日帰り温泉施設ですが、この敷地内に「堀部《ほりべ》第1遺跡」という遺跡があることを、皆さんご存じでしょうか? この遺跡は、今から約2500年前、北部九州から出雲に最初に米作りを伝えた人々が葬られた墓地で、島根県の史跡に指定されています。ここに葬られた人々が暮らしたムラが、「多久の湯」の北300㍍にある北講武氏元《うじもと》遺跡です。住居は見つかっていませんが、墓地と同じ時代に営まれた弥生時代前期のかんがい用水路が見つかっています(図1)。
この遺跡で特筆されるのは、弥生時代に開削された水路が、その後も長らく継続して営まれていたことが明らかになった点です。この水路は、『出雲国風土記』記載の「多久社」の旧社地付近を水源とし、北講武の谷を南に流れる光谷《みつたに》川という小さな谷川を山沿いに付け替えたものと考えられます。この水路はたび重なる洪水で何度も埋没しますが、そのたびに復旧していた様子が発掘調査で明らかになっています。
水路は洪水で埋まるたびにほぼ同じ場所に復旧されていますが、時期が下るにつれて徐々に山寄りの高い場所に移動していきます。これは高所に用水を通すことによって、より広い範囲の水田に給水しようとしたためと考えられます。調査では、弥生前期、弥生後期、古墳前期、古代・中世の水路が確認され、最終的には圃場《ほじょう》整備前の水路まで続いていたことが分かったのです。
講武地区には、最近まで条里制《じょうりせい》水田と呼ばれる土地区画の跡がよく残っていました。条里制とは、古代から中世にかけて行われた、水田を1町(109㍍)四方に区画する土地の管理制度です。施工された時期は地域によって違いがありますが、講武平野の場合は、北講武氏元遺跡の調査で、8世紀の水田が見つかっており、その地割が圃場整備前の水田までほぼ踏襲されていたことが分かりました(図2)。
つまり、講武地区の水田の地割や水路は確実に古代までさかのぼり、さらにかんがい水路に関しては、弥生前期にこの地に入植し、水田を開拓した際の水利網が、脈々と受け継がれてきたと考えられるのです。現在まで残るかんがい水利のルーツが古墳時代や古代までさかのぼる事例は幾つか知られていますが、発掘調査で弥生前期までさかのぼることが明らかになったのは、全国的にみても極めて珍しいケースと言えます。
圃場整備によって往時の景観は大きく変化していますが、山沿いを流れる光谷川から取水して水田を潤す構造は今も変わっていません。現地を訪れた4月下旬は、ちょうど田起こしの時期で、小川は豊かな水量をたたえ、せき止められた谷水は滔々《とうとう》と水田を潤していました。「多久ムラ」の開村時に開削されたこの用水は、2千年以上にもわたって多久の大地を潤し続け、豊かな実りをもたらす動脈として、現在も確かに生き続けているのです(図3)。