いまどき島根の歴史

第84話 弥生時代の高地性集落

東森 晋 専門研究員

(2023年7月4日投稿)

 職場の近くや、便利な街中、自然豊かな郊外など、多くの方がどこに住むかで悩んだ経験があるのではないでしょうか。島根県では、1990年代以降の発掘調査増加にともなって、縄文時代から江戸時代にかけての数多くの住居跡が確認されました。時には思いもよらない場所から住居跡が見つかることもあり、時代や地域ごとにさまざまな場所が居住地に選ばれていたことが分かっています。

 本格的な稲作が始まった弥生時代、水田がある平地と数十㍍以上高低差のある山や丘陵の上で複数の住居跡が見つかる例があります。「高地性集落」と呼ばれるこの特徴的な集落の、島根県代表と言えるのが、安来市の陽徳《ようとく》遺跡です。中海を見下ろす標高80㍍の山の頂上で、1世紀前半と3世紀前半の竪穴住居跡が計5棟確認されました。

中海を見下ろすムラ 安来市の陽徳遺跡(島根県埋蔵文化財調査センター提供)

 1997年に開催された「古代出雲文化展―神々の国 悠久の遺産―」展示図録では、「迫りくるヤマト」の項で、弥生時代終わりごろに山の上で営まれた集落について、社会の緊張関係を反映した集落と評価されており、陽徳遺跡は出雲に入ってくる船を見張る集落として紹介されています。中国の史書には、2世紀後半の日本について、「倭国乱」という記載がありますが、陽徳遺跡で数棟の住居が建てられるのは、この前と後の時期になります。

 一方、陽徳遺跡発見の4年後、江津市の古八幡付近《ふるはちまんふきん》遺跡で、紀元前2世紀から1世紀の壕《ほり》をめぐらした集落が、標高62㍍の山の上で見つかりました。この遺跡では2世紀以降は標高10㍍前後の所に居住域が移っているので、県内でもずいぶん早い時期に山の上で生活し、「倭国乱」の頃には麓で暮らしていたことになります。同様の集落は、大田市の御堂谷《みどうだに》遺跡や庵寺《あんでら》古墳群でも確認されています。

 また、同じ山陰地方でも、鳥取県米子市・大山町の妻木晩田《むきばんだ》遺跡では、標高100~180㍍の山の上で、1世紀から3世紀後半の竪穴住居跡が450棟以上、掘立柱建物跡が500棟以上見つかっています。これは出雲地域で確認されている同時期の全建物数に匹敵し、長期間山の上で、非常に大勢の人々が生活していた点が特徴的です。このように現在は、島根県や周辺の高地性集落には、山の上で生活した期間や住居の数にかなり幅があることが分かっています。

 最後に、あまり触れられることが無いのですが、島根県では弥生時代に高地性集落が営まれた遺跡で、古墳時代や奈良時代、平安時代の集落が見つかる例があります。その一方で、中世の集落は平地で確認されているので、高い山や丘の上で生活する理由が、必ずしも社会的緊張や軍事的なものだけでないことがうかがえます。

 かつては「倭国乱」をキーワードに、社会的緊張を背景に成立したと考えられていた島根の高地性集落ですが、そのほかにも災害や自然環境の変化、耕作地や食料の確保など、不便な山上への引っ越しを決断するだけの様々な背景があったと想像されるのです。