いまどき島根の歴史

第85話 最古の鐘 なぜ大阪へ

目次謙一 専門研究員

(2023年7月11日投稿)

 テレビ番組や雑誌などで紹介される、昭和以前のレトロな台所では、カマドで釜《かま》や鍋が使われていました。皆さんの中には、実際に薪《まき》を燃やして米を炊いたり、湯を沸かしたりしたという方もいらっしゃるかもしれませんね。

 かつて、こうした鉄製の釜や鍋を製作していた鋳物師《いもじ》は、一方で寺院の鐘のように大きなものも手がけていました。川本(川本町)にいた鋳物師・山根氏が鋳造した鐘のうち、現存し、かつ最も古いものが正法寺《しょうぼうじ》(大阪府寝屋川市)の梵鐘《ぼんしょう》です。

 その大きさは高さ109.3㌢・口径63.0㌢で、表面に加えて内面の一部まで、時期の異なる多量の銘文が施されています。そのうち、造られた当初の銘文には、石見銀山があった石見国邇摩郡佐摩郷《いわみのくににまぐんさまごう》大森村(大田市)の覚法寺(現在は美郷町吾郷《あごう》所在)の鐘として、製作を僧・順教が思い立ち、1615(慶長20)年に川本の鋳物師・山根九郎左衛門《くろうざえもん》が鋳造したと読み取れます。

浄土真宗本願寺派紫雲山正法寺の鐘(大阪府寝屋川市)

 この鐘はなぜ今、大阪にあるのでしょうか。銘文の続きを読むと、1656(明暦2)年には安芸国《あきのくに》広島(広島市)の永照寺に移されていることが分かります。17世紀前半、石見銀山の銀産出量の減少につれて人々や寺院が各地へ移動していったことを背景に、この鐘も大森村から移ったとする説があり、うなずけるところでしょう。

鐘の調査風景

 その後、この鐘は昭和の初めには寝屋川市内にあって、1962(昭和37)年に正法寺の鐘楼《しょうろう》へ懸けられています。実は、このように鐘が複数の寺院を転々と移る例は全国的にも多く、遠隔地への移動もまま見られるのです。

 例えば、温泉津《ゆのつ》の町並み内(大田市)にある愛宕《あたご》山の鐘はその銘文から、1497(明応6)年に因幡国《いなばのくに》野坂(鳥取市)の鋳物師・藤原信重が製作し、初めは隠岐国《おきのくに》海士郡(海士町)の源福寺にあったことが明らかです。その移動理由は豊臣秀吉の徴発とも伝えられていますが、定かではありません。

 時代は下り、太平洋戦争では資源利用のために全国で4万5千以上の鐘が供出されたという推定があります。幸いにも供出を免れ、現在に伝えられた正法寺の鐘。機会を得れば、平和の尊さに思いをはせながら、移動先の各地で多くの人々が聴いたであろう、その鐘の響きを味わいたいと思います。