いまどき島根の歴史

第86話 石見国府址の石碑

榊原博英 特任研究員

(2023年7月18日投稿)

 本年度から島根県古代文化センターでは、「律令制下における地方行政の研究」として、奈良時代以降の地方行政単位の国、郡の様相の研究を始めます。ここでの「国」は、現在の県より小さく、出雲国、石見国、隠岐国があり、国の役所は「国府」「国庁」と呼ばれました。

 1928年には、石見「国府址」の石碑が下府《しもこう》(下国府の変化した地名)村青年団により建てられました。これは1928年11月10日の昭和天皇の即位の礼である御大典を記念したものです。現在は浜田市下府町の伊甘《いかん》神社の境内にあり、国府推定地として神社と石碑が紹介されています。

 石碑建立3年前の、1925年には『島根県史』が刊行され、そこには石見国府は仁万から、現在の浜田市下府町御所へ移転したと書かれています。石碑は『島根県史』の記述に近い位置に建立されていますので『県史』が建立場所に影響したかもしれません。

(写真1)石見「国府址」の石碑(浜田市下府町)
(写真2)光明寺と伊甘神社 中央道路が広浜鉄道路線跡、国府址の石碑は約92㍍動いています

 ところで、地元の方の回想録に、石見国府跡の石碑は、1928年に伊甘神社近くの光明寺の下(写真2)に建てられ、広浜《こうひん》鉄道工事のために現在の場所に移転したとの記述がありました。広浜鉄道は広島と浜田の下府駅を結ぶ鉄道として、1933年着工、1940年に戦争のため中止された未成線《みせいせん》で、現在もトンネルや橋脚が残っています。

 1928年に光明寺下に建てられた「国府址」の石碑は、1933年以降に約92㍍北側の伊甘神社境内に移転したことになります。石碑は地元の方々が建てた貴重な文化財ですが、当初は別の場所にあったのです。

 伊甘神社は『日本三代実録《にほんさんだいじつろく》』によると869年に朝廷から位を授けられた古い神社で、付近に「御所」の地名が残り、位の高い人の住まいが想像されます。また、境内には国府の別称である府中を冠した府中神社などもあります。

 しかし、「御所」は「五所」の当て字で、神社を合祀《ごうし》した所とみれば、位の高い人の住まいの意味にはなりません。また、伊甘神社もかつては北東側の「吹上浜《ふきあげはま》」から移った伝承があり、古代から今の位置にあったかどうかは不明です。

 伊甘神社にある「国府址」の石碑を見ると、つい、この場所を国府跡と思ってしまいます。実際に1978 年に伊甘神社付近で発掘調査が行われましたが、国府跡は確認できませんでした。周辺は道路になった路線跡、JR山陰本線などで地形が分断されていますが、本来は下府川のある西方向に開けた東西約290㍍、南北約180㍍の平坦《へいたん》地があったと考えられます。

 国府は広い平坦地に造られる場合が多く、その点では石見国府跡も平坦地のどこかにあった可能性があります。しかし、詳細な位置を特定するためには、石碑や神社の位置、地名だけにとどまらず、さらに広い範囲を対象として検討する必要があるのです。