いまどき島根の歴史

第87話 近現代の歴史を辿った松平直政公像

土橋由奈 特任研究員

(2023年7月25日投稿)

 島根県庁から松江城付近にかけて、松平直政《まつだいらなおまさ》、若槻礼次郎《わかつきれいじろう》、岸清一《きしせいいち》など多くの銅像が立っています。その中でも松平直政公銅像は、台座の上で天を仰ぐ姿がひときわ目立っています。今回は、その直政公銅像が辿《たど》った歴史を、少しばかりのぞいてみたいと思います。

島根県庁前にある現在の松平直政公像。この辺りから松江城天守がきれいに見えることもあり、天守と合わせて銅像を撮影する人も多い(2023年7月1日撮影)

 明治以降、国家の英雄や功績のあった人物をたたえるための銅像建設が各地で盛んに行われ、銅像ブームが起きます。このブームの中、松平家初代松江藩主・松平直政の銅像建設を思い立ったのが、青山泰石《あおやまたいせき》という松江市出身の木彫家でした。青山は松江の有志たちへ銅像建設の意志を伝えます。その後、銅像建設事業が本格的に動き出しました。

 計画の途中で、銅像の制作者が安来市出身の彫刻家・米原雲海《よねはらうんかい》に代わるなど、さまざまなごたごたもあったようですが、1927(昭和2)年10月7日に無事、除幕式が行われました。銅像は台座とともに松江城本丸に据えられました。一方、青山泰石は個人で銅像制作を進めていきます。この青山が制作した像の一つが、現在、松江神社にある松平直政の御神像です。

 1937(昭和12)年の日中戦争開戦以来、戦争の激化による物資不足が深刻となり、さまざまな物資に利用・製造の制限がかけられていきます。軍需品となる金属も制限の対象となり、1941(昭和16)年に金属類回収令が出されました。いわゆる金属供出《きょうしゅつ》です。以降、寺院の梵鐘《ぼんしょう》や銅像などの大型製品や家庭内の金属製品が回収されていきました。

 島根県内でも回収が始まり、1943(昭和18)年には岸清一、若槻礼次郎(当時は松江市上乃木の床几山《しょうぎさん》にありました)、松平直政の銅像3体が「応召《おうしょう》されることが決まります。「応召」には国のために進んで召されるという意味が含まれており、銅像の供出が出征《しゅっせい》と重ねられていたことが読み取れます。そして、直政像は同年11月22日、若槻礼次郎・岸清一像は24日に壮行祭が行われ、回収されていきました。

1943(昭和18)年11月20日、『島根新聞』掲載の記事「米英撃滅に初陣 廿二日撤去奉告祭」。銅像が直政初陣の姿をモチーフとしていることと関連させた内容。本文には「十四才初陣の銅像も敵米英討ちてし止まむの弾丸となつて戦地の敵にまみえる」とある(画像提供:島根県立図書館)

 戦後は、台座のみ松江城本丸に残されたままでしたが、1977(昭和52)年には松平直政公銅像再建委員会が結成され、その後、松平直政公銅像建設委員会により、松江開府400周年の2009(平成21)年、直政の銅像が県庁前に再建されました。

 銅像ブーム最中の建設、戦争への出征、戦後の復活。松平直政公銅像が辿った運命には、それぞれの時代背景が色濃く反映されています。直政公の銅像が見る景色も、天守から松江の空に移り変わりました。これからの時代、できることならいつまでも、平和な空を見上げていてほしいものです。