いまどき島根の歴史

第88話 中世 益田の土器

廣江耕史 特任研究員

(2023年8月8日投稿)

 益田市は、現代においても中世の様子が良く残るまちと言われています。この20年の間、益田市域では盛んに発掘調査が行われました。沖手遺跡、中須東原・西原遺跡、三宅御土居《おどい》遺跡、七尾城などからは、中国製陶磁器など中世の焼き物が多く見つかっています。中世全般を通して一番多く見られるのが「土師器《はじき》」(かわらけ)と呼ばれる赤褐色や灰白色の素焼きの皿・坏《つき》です(写真1)。

(写真1)益田市出土の土師器

 土師器は、それぞれの地域で焼かれ使用される「流通しない」土器とされ、軟質で脆弱なことから使用期間も短く遺跡の年代を決める際の物差しとして使われます。写真の後列は、13世紀の浜寄・地方遺跡、中央が15世紀の沖手遺跡のもので、古い時期は深みがあり時代が下ると浅くなっていくという変化をします。

 中世の石見地域の土師器は、底部に「糸切り痕」と呼ぶロクロ成形時に台から切り離す際の痕跡が残り、これらを在地系土師器と呼んでいます。

 一方、京都を中心とする畿内周辺では、手捏《てづく》ね成形により底部に丸みを呈した京都系土師器が焼かれています。山口県山口市の大内館跡《おおうちやかたあと》では地方としては珍しく、16世紀前半に京都系土師器を焼いています。大内氏と京都との強いつながりを想定させるもので、同時期に大内館では、在地の土師器として灰白色の薄手で底部に糸切り痕をもつ土師器も見られます。

 沖手遺跡からは、益田市域では珍しく、大内式在来系土師器と京都系土師器(写真2)が出土しています。大内館周辺で焼かれたものが、日本海経由で港湾集落の沖手遺跡に持ち込まれたものです。また、七尾城では在地土師器の底部周囲を丸く削ることで京都系土師器を模倣して焼かれています。益田市域で京都土師器を強く意識していたことが分かります。

(写真2)沖手遺跡土師器皿

 もう一つ、中世の益田市域でみられる特徴的な焼き物として、「防長型瓦質土器《ぼうちょうがたがしつどき》」(写真3)があります。山口県防府市の岩淵遺跡でこれを焼いた窯が確認されています。炊事用の鍋・釜、すり鉢といった器種で鍋の底に3本の脚が付くという特徴のある日常雑器で、14世紀中葉から17世紀前半まで焼かれています。

(写真3)中世石見地域の生活雑器

 山口県を中心に分布し、西は福岡県、佐賀県まで島根県内では大田市を東限として42遺跡で出土しています。点数は益田市沖手遺跡124点、三宅御土居跡47点、津和野町の野広《のびろ》遺跡108点、高田遺跡27点と益田市、津和野町から多く出土しています。

 益田市域では西長門型、安芸型など防長以外の各地の製品が混在し、津和野では防長型のみ出土することから吉見氏と大内氏の密接な関係がうかがえます。益田市の横田あたりで分布の境界が見られ、益田氏と吉見氏の勢力範囲を想定できます。土器の生産と流通に大内氏が関係していたことが指摘されており、大内氏の勢力拡大と衰亡という動きに連動しています。

 「益田家文書」など古文書には有力国人の名前、具体的な勢力争いなどが文字として残されています。一方、考古資料である土器は形態、作り方、分布状況などから国人層の様子をうかがい知る有力な物証となります。戦国領主の動向を探る際には、文献と考古の両面からの調査、研究が必要となります。