第91話 出雲と越(こし)-『出雲国風土記』の移住伝承から-
池淵俊一 古代文化センター長
(2023年8月29日投稿)
神戸川下流域の出雲市古志《こし》町周辺は、古代には神門郡古志郷《かんどぐんこしごう》と呼ばれていました。『出雲国風土記』には、古志の地名は、イザナミ命《のみこと》の世、すなわちはるか昔の神代《かみよ》の時代に、古志(北陸地方)の人々が池を築くため、この地に移り住んだのがその由来と伝えています。
最近の研究では、出雲平野では6、7世紀に水田開発が急速に進んだことが指摘されており、『風土記』の古志の地名起源に書かれている池は現在、下古志《しもこし》町に堤防跡が残る宇賀《うか》池跡にあてる説が有力です。6、7世紀の北陸では、出雲のものと類似する横穴墓《よこあなぼ》や製塩土器、煮沸き具が存在するなど、出雲と北陸との交流を示す資料があることから、古志郷の地名伝承はこうした当時の出雲と北陸との交流を反映したものと考えられています。
しかし、この時期の出雲と北陸との交流を示す資料は、出雲から北陸への一方的な影響を示すもののみで、『風土記』に書かれているような、北陸から出雲へ人が移住したことを示す資料は現状では確認できません。
『風土記』に書かれているような、北陸から出雲への人の移住を示す資料として注目されるのは、出雲市の西谷3号墓(2世紀後半)から出土した多量の丹越系《たんえつけい》土器の存在です(写真)。丹越系土器とは、近畿北部(丹後《たんご》・但馬《たじま》)から北陸(越)に系譜をもつ土器のことで、近年の研究では、西谷3号墓の丹越系土器には丹後・北陸両地域の土器が含まれている可能性が高いと考えられています。
これらの一部には、出雲平野の土器と酷似する粘土が使われていることから、彼の地から直接運ばれてきた土器だけではなく、北陸や丹後の人々が実際にやってきて、出雲で製作された土器も含まれると想定されるのです。
西谷3号墓の次の時代である3世紀になると、ワイングラス形をした土器が山陰地方全域に分布するようになります(図)。このワイングラス形土器は、製作技術からみて地元で製作されたことは確実ですが、その独特な形態はそれまでの山陰の土器には全く見いだすことができません。
さらにその分布をみると出雲平野に中心があることは明白で、特に古志郷周辺の遺跡(古志本郷《こしほんごう》遺跡・下古志《しもこし》遺跡)から多数出土している点が改めて注目されるのです。つまり、西谷3号墓の祭儀に参列するため北陸からやってきた人々の一部は、そのまま出雲平野にとどまり、故郷の土器に類似する土器を作りはじめた可能性が考えられるのです。
少なくとも、この土器の分布状況を考慮すれば、西谷3号墓出土の丹越系土器が当地のワイングラス形土器のモデルとなって、新たな器種として製作され始めた可能性はかなり高いと言えるでしょう。
古代の人々は、過去の出来事を語る際には、「○○天皇の御世」と表現していました。『風土記』の時代(733年)の100年ほど前の出来事が、神代の出来事と語られた背景には、実際の池の開発伝承と別に、はるか遠い過去に北陸の人々がこの地にやってきた記憶が、出雲の地で脈々と語り継がれてきたことを何かしら反映しているのではないでしょうか。