いまどき島根の歴史

第94話 万葉集に歴史をみる

橋本 剛 主任研究員

(2023年9月19日投稿)

 今年は言わずと知れた万葉歌人、柿本人麻呂《かきのもとのひとまろ》の没後1300年とも伝えられる年です。万葉集に残されている人麻呂作品の中でも、とりわけ島根県と関わりが深く、傑作としても名高い石見相聞歌《いわみそうもんか》は、現代の私たちをも魅了してやみません。

 そんな万葉集は、古代を生きた人々の機微を伝える文学作品としてはもとより、歴史資料としても貴重で、国家が編纂《へんさん》した歴史書が語ることのない史実を多く伝えてくれています。特に都から地方に派遣される国司に関する歌は、古代の地方行政の実態をうかがうことのできる格好の素材といえるでしょう。

 国司は4年または6年の任期がありますが、役所である国府にとどまっていたわけではありません。定期的に国内各所を巡行し、政情視察を行っていました。

 それが分かるのが、万葉集の編者と目される大伴家持《おおとものやかもち》が越中国司時代に詠んだ歌です。家持は国内の財政状況を視察するため各地を巡り、その場その場で歌を詠みました。こうした歌から、郡司をはじめとする地域の人々との交流や、具体的な巡行ルートなどを復元することが可能です。

 国司は任期中、一時的に都へ戻ってくることもありました。戸籍をはじめとする帳簿類や税などを運ぶ使者を務めていたからです。その中でもっとも重要だったのが朝集使《ちょうしゅうし》と呼ばれる使者で、毎年11月ごろに国内官人の勤務評定などを携えて上京し、正月の元日朝賀にも参列しました。

 万葉集からは、出雲国司の掾《じょう》(三等官)であった安宿奈杼麻呂《あすかべのなどまろ》が、朝集使として都に上ったことが分かります。これは、万葉集のみが伝える史実です。

 さらに興味深いことに、この時の奈杼麻呂の“任務”は朝集使のみではありませんでした。万葉集には、彼が上京中に安宿王《あすかべおう》という人物と宴会を催したことが記されています。では、奈杼麻呂と安宿王はいったいどのような関係で、なぜ宴会の席を共にしたのでしょうか。

 実は、当時の出雲国司の守《かみ》(長官)、つまり奈杼麻呂の上司は山背王《やましろおう》という人物だったのですが、彼は安宿王の弟だったのです。そして奈杼麻呂は、出雲に在国している山背王が詠んだ、自身が息災であることを伝える歌を宴会の席で披露しています。安宿王は、はるか遠くの国司として励む弟の消息を知り、安堵《あんど》したことでしょう。

「万葉集」巻20(国立公文書館デジタルアーカイブ)に載る、出雲国司長官・山背王の歌「うちひさす 都の人に 告げまくは 見し日のごとく ありと告げこそ」(都の人に告げ知らせたい お目にかかった時のように 元気にしておりますと)

 このように、朝集使など公式の任務で上京する場合であっても、国司たちはその機会に乗じてさまざまな役割を果たしました。それは今回の事例のように、同僚たちから頼まれる場合もあったはずです。

 こうした事実は、公的な歴史書からはほとんどうかがい知ることができません。この記念すべき年に、新たな視点で万葉集を読み返してみてはいかがでしょうか。