いまどき島根の歴史

第95話 知られざる雲南の弥生遺跡

東森 晋 専門研究員

(2023年9月26日投稿)

 雲南市加茂町では、島根を代表する考古学上の大発見が二つ知られています。一つは、1972年に神原神社古墳《かんばらじんじゃこふん》で出土した、全国で2面しか見つかっていない景初《けいしょ》3年銘《めい》三角縁神獣鏡《さんかくぶちしんじゅうきょう》。景初3(239)年は邪馬台国《やまたいこく》の女王・卑弥呼《ひみこ》が、中国の魏《ぎ》の皇帝に使者を送った年です。二つ目は1996年に加茂岩倉遺跡で発見された、全国最多39個の国宝銅鐸《どうたく》です。

 しかし、さらにもう一つ、神原神社古墳と加茂岩倉遺跡の発見の間に、発掘調査された神原正面北遺跡を知る方は少ないのではないでしょうか。

 神原正面北遺跡は、加茂岩倉遺跡から直線距離で約2㌔南東、神原神社古墳のわずか500㍍南東に位置し、三つの遺跡はほぼ直線状に並んでいます。加茂中央公園の整備に伴って1980年に発掘調査が行われ、弥生時代から中世にかけての遺構や遺物が多数見つかりました。その中にはなんと、加茂岩倉銅鐸と同じ時代のものがあるのです。

 現在、公園の北東にある展望台の西側で、弥生時代中期(約2200年前)に掘られた幅約4㍍、深さ約1.4㍍の大型の溝が確認されました。工事にかかる部分的な調査のため、溝の全体像は不明ですが、規模や等高線に沿って掘られている様子から、要害《ようがい》遺跡(雲南市三刀屋町)や田和山《たわやま》遺跡(松江市乃白町)、古八幡付近《ふるはちまんふきん》遺跡(江津市敬川町)のように丘陵頂部を大型の溝で区画している可能性が考えられます。加茂岩倉遺跡と同時期の遺跡では、最も近い位置にあり、神原の村人たちは銅鐸の大量埋納《まいのう》を目にしたかもしれません。

 続く弥生時代後期(約1900年前)には、大型溝の西側の丘陵が墓地になります。墳墓は埋葬施設《まいそうしせつ》(遺体を納める穴)が、数カ所のものから45カ所も見つかったものまでさまざまです。前者からは丁寧に飾られた壺《つぼ》が、後者からは煮炊きに使われる煤《すす》の付いた甕《かめ》が出土しています。お墓に供《そな》えられた土器からも、一般の村人とは区別されて埋葬されるリーダー的な人々がいた様子が分かります。

弥生時代後期の墳墓。写真奥に写るのは加茂中学校(雲南市教育委員会提供)
1980年の現地公開の様子(雲南市教育委員会提供)

 ところがその後、出雲で四隅突出型墳丘墓が続々と築かれる弥生時代後期の終わりごろになると、神原正面北遺跡では墳墓が造られなくなります。そして、古墳時代になり、四隅突出型墳丘墓が姿を消すと、再び神原正面北遺跡は墓地になり、遺跡西側の丘陵上に土井・砂古墳群、さらに北西の赤川の川岸には、あの神原神社古墳が築かれていきます。

 このように神原正面北遺跡の発掘調査成果は、加茂岩倉遺跡の銅鐸大量埋納の謎を解く上で重要な鍵を握っていると考えられるのです。