第98話 「浦もち衆」都野氏
目次謙一 専門研究員
(2023年10月24日投稿)
1569(永禄12)年6月、尼子《あまご》氏の再興を掲げて尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らが丹後《たんご》・但馬《たじま》(現在の京都府から兵庫県にかけての地域)から、毛利氏の支配する出雲へ侵攻しました。その主張によれば、数百隻の船で忠山《ちゅうやま》(松江市美保関町)に上陸したといいます。
日本海と宍道湖・中海の中間にあたる真山《しんやま》城(松江市法吉町)を本拠に定め出雲攻略を始めた勝久軍に対し、毛利氏の軍勢は多くが九州・山口方面に展開しており、対応が遅れました。しかし、1570(永禄13)年1月、毛利元就・輝元が出雲へ向けて出陣して以降、両軍は各地で激しい戦いを繰り広げていきます。
当時、杵築《きずき》大社(出雲大社)の門前町・杵築(出雲市大社町)は多くの人や物が集まる港町としても栄えており、この戦いでも重要な場所でした。軍船で出雲へ攻め寄せた勝久軍の攻撃から日本海交通の拠点・杵築を守るため、毛利元就は直属の家臣や出雲・石見の武士を指揮する吉川元春へ、できる限り早く軍船を動員するよう指示しています。
具体的には、直属の家臣に対しては、石見で「小浦」を持つ者たちに手紙を送って船を出させることを命じ、毛利氏の直轄領であった温泉津《ゆのつ》(大田市)へ派遣しています。元春本人に対しては浜田での動員を同様に指示し、かつ、益田氏や都野《つの》氏といった「浦」を領有する武士(「浦もち衆」)にも船の動員をよくよくかけるべきと伝えています。
この「小浦」「浦」とは、船が停泊し拠点とした場所・地形を指すと考えられます。ここで注目したいのは、杵築を守る軍船の調達にあたって、元就が石見の「小浦」を持つ者たちや「浦」を領有する武士に期待していることです。自前の船を若狭や出雲方面へ派遣し、日本海交易に関わったことがよく知られている益田氏とならんで、都野氏が挙げられている点が興味を引きます。
都野氏は中世の江津・都野津《つのづ》を支配していたと考えられています。いずれも古くからの港ですから、都野氏が船を持ち、軍船として毛利氏に提供できるのもうなずけるでしょう。その実像、そして当時の江津・都野津はどのようなところだったのでしょうか。
船の確保を急ぐ毛利元就は、早く確実に船を提供してくれる武士をまず頭に浮かべ、優先して頼むべきと考えたことでしょう。いざという時に元就が頼りにした都野氏、その「浦」である江津・都野津。そこは多くの船が行き交う場所だったに違いありません。