第99話 毛利軍の富田籠城
田村 亨 主任研究員
(2023年10月31日投稿)
月山富田城《がっさんとだじょう》(安来市広瀬町)といえば、戦国大名尼子《あまご》氏の居城としておなじみです。永禄《えいろく》9(1566)年、尼子氏は毛利《もうり》氏の軍勢に降伏し、城を退去しますが、ここで富田城の歴史が幕を閉じるわけではありません。今回は、毛利軍が入城した時期の富田城に関する一局面を紹介したいと思います。
永禄12(1569)年、尼子家の再興を掲げた尼子勝久《かつひさ》たちの軍勢が、新山城《しんやまじょう》(松江市法吉町)を拠点としながら出雲国や伯耆《ほうき》国で軍事活動を展開し、8月から富田城の攻撃を開始します。
当時、富田城に詰める毛利軍の責任者をつとめたのは安芸《あき》国の天野隆重《あまのたかしげ》という人物でした。毛利元就《もうりもとなり》や輝元《てるもと》を中心とする毛利本軍はこの頃、九州の大友《おおとも》軍と相対しています。隆重は、毛利本軍の援軍がすぐには期待できない状況下、尼子再興軍から富田城を守らなければならなかったのです。
永禄12年の9月27日、隆重は出雲国朝山郷《あさやまごう》の豪族である賀儀太郎右衛門尉《がぎたろううえもんのじょう》という人物に書状をしたためています。この書状は、賀儀氏が隆重に味方して富田城に籠城していることに対して謝意を伝える内容です。
この書状には「馬来《まき》・河本《かわもと》・湯原《ゆばら》以下の者ども手返」、つまり馬来氏や河本氏・湯原氏などが隆重を見限って尼子再興軍方についたことも記されています。尼子再興軍が勢いを増す中で、尼子家の旧臣たちが立て続けに再興軍方に転じており、富田城を預かる隆重は窮地に陥っていました。
隆重は、賀儀氏などの残された味方勢力をなんとかつなぎとめなければならなかったのです。書状の後半では、賀儀氏の訴えを受けて、朝山郷内など出雲国内各所の権益を保証すべく尽力する旨が記されています。
3ヶ月後の12月20日、今度は毛利元就・輝元の連名で賀儀氏宛ての文書が届きます。富田籠城をねぎらうとともに、賀儀氏が望む所領を保証する旨を伝えるものです。この文書は、先ほど紹介した隆重の書状と比較すると4分の1ほどのサイズですが、このように元の紙を半分よりさらに小さく切った紙を「小切紙《こきりがみ》」といいます。
軍事関係の古文書に度々用いられる様式ですが、「髻《もとどり》の文《ふみ》」(束ねた髪の中に入れて運んだ書状)とも呼ばれるように、密書としても機能しました。富田籠城下の情報伝達の緊張感を読み取ることができるかもしれません。隆重は、敵軍に囲まれた中でも元就・輝元ら毛利本軍と連絡を取りつつ、味方が離反しないように奮闘したことが分かります。
永禄13年(1570)に入り、ついに毛利軍の救援が出雲に入国します。2月には富田城の南にある布部《ふべ》の合戦で毛利軍が尼子再興軍を打ち破り、富田城の囲みが解かれました。この合戦以後は、毛利元就の五男である毛利元秋《もとあき》が、天野隆重とともに富田城に在番することとなります。
出雲の戦国時代といえば尼子氏ですが、時には毛利氏など、さまざまな立場・視点から戦乱の状況に目を向けてみると、出雲地域の人々のさまざまな立ち回りが見えてきます。