第102話 謎の伯大川
平石 充 主席研究員
(2023年11月21日投稿)
安来市の飯島《はしま》町で中海に注いでいる伯太《はくた》川という河川をご存じでしょうか? 出雲地方の東部、松江・安来市は全体として平野が少ない地勢ですが、伯太川の流域には水田が広がり、特に中流域の赤崎田んぼが有名です。この川は江戸時代には畠《はた》川・井尻《いじり》川(いずれも上流にある地名)などと呼ばれていました。
733年に作られた出雲国風土記にも「伯大《はた》川」が見え、この川は「山国《やまくに》川」(現吉田川)と合流し、母理《もり》・楯縫《たてぬい》・安来郷を流れて入海《いりうみ》(中海)に注いでいたと記されています。地図に示したように、「伯大川」を伯太川とみても、その流路と郷の位置関係は大きく矛盾しませんので、過去の風土記注釈書は「伯大川」=現在の伯太川としてきました。
しかし、この一帯の自然地形をみると、今の伯太川は実に不自然な河川です。地図の青い場所は標高が低く、緑色が高い場所、色のないところは標高10㍍以上ですが、伯太川は平野の一番高い所を流れ、安来運動公園の地点で丘陵を人工的に切り通して安来市街地に向かっています(写真)。
これは江戸時代の初め、松江藩主が京極氏だった頃に、いわゆる若狭《わかさ》土手を築堤し川を直線的に整備した結果とされています。ただし、それ以前にも九重《くのう》町の低地部を抜けていようです(A案。1970年発行の『安来市誌』による)。
風土記を読むと、秋鹿《あいか》郡恵曇《えとも》浜(松江市鹿島町恵曇)に、磐壁《いわかべ》に用水路を通し排水したという記事があります。また意宇《いう》川も風土記の頃には平野の一番高い所を流れる現在の河道に付け替えられています。
これらと同じように、「伯大川」は赤崎田んぼのある低地に水がたまらないよう、風土記の頃には既に人工的に付け替えられていたと考えることもできます。
これとは別に、『安来市誌』はA案より古い流路として、「伯大川」が吉田川の河道を通っていたのではないかと推定しています(B案)。「伯大川」が現在の疵川《きずかわ》付近を通り吉田川と合流していたとすると、この流れは地形の低い部分を通るので自然に理解できます。
いずれにせよ、風土記の「伯大川」は今の伯太川そのものではありません。そして「伯大川」がどこを流れていたかは、この地域の水田が、いつごろ開発されたのかを考える上で大変、重要な要素であるといえます。