第103話 出雲郷のルーツ
池淵俊一 古代文化センター長
(2023年11月28日投稿)
島根県にはクイズ番組にも出題されるような、いわゆる難解地名が多数存在します。有名な例としては、出雲市の十六島《うっぷるい》や大田市の五十猛《いそたけ》などがありますが、これと並んで、松江市東出雲町の「出雲郷《あだかや・あだかえ》」もその代表格として挙げることができるでしょう。
少し詳しい人なら、出雲郷の地名が、同地に所在する阿太加夜《あだかや》神社に由来することは、ご承知のことと思います。現在はホーランエンヤの舞台としても有名ですね。同社は阿太加夜奴志多岐喜比売命《あだかやぬしたききひめのみこと》を祭神とし、『出雲国風土記』にも登場することから、8世紀に存在したことは確実です。一説には、元の社殿は東出雲町の今宮にあったとされ、同地には小字で「阿太」という地名が残っています。
この神社のルーツを考える上で注目されるのは、同神社のある意宇《おう》平野から出土する朝鮮半島系土器の存在です。5世紀の意宇平野は、出雲で最も朝鮮半島系土器が出土する地域で、代表例として出雲国府跡下層の古墳時代集落や夫敷《ふしき》遺跡が挙げられ、当地に一定規模の渡来人集団が定住していたことが判明しています。
そして、彼らが備えていた、土木技術や鍛冶、窯業など、さまざまな最新技術によって、この時期に意宇平野周辺の開発が急速に進展したことが発掘調査で明らかにされつつあります。
これら朝鮮半島系土器の多くは当時、加耶《かや》と呼ばれた、朝半島南部のものが多数を占めています。当時の加耶は、百済《くだら》や新羅《しらぎ》と異なり、多くの小国が分立していました。
中でも注目されるのが、現在の慶尚南道咸安《けいしょうなんどうはまん》付近にあった阿羅加耶《あらかや》という国です。この地域の阿羅伽耶様式と呼ばれる土器が、出雲市の上長浜貝塚《かみながはまかいづか》や中野清水《なかのしみず》遺跡、松江市の佐太前《さだまえ》遺跡で見つかっています。
意宇平野では、この阿羅伽耶様式の土器そのものは出土していませんが、阿羅加耶に隣接する昌寧《ちゃんにょん》地域の土器が見つかっています。また、出雲国府跡では、朝鮮半島南西部の馬韓《ばかん》の土器も出土しており、朝鮮半島の特定箇所ではなく、複数地域の人々が居住していたようです。
このように、5世紀の意宇平野に朝鮮半島南部、特に阿羅加耶付近とつながりのある人々が居住していたという考古学的事実に基づけば、出雲郷のルーツは、阿羅加耶に関係する神を奉斎した渡来人集団に由来する可能性があるのではないか、というのが私の仮説です。
このように、地名には、意外な歴史が隠されていることが往々にして見られます。皆さんも一度、お住まいの地域の地名の起源を調べてみられてはいかがでしょうか。