いまどき島根の歴史

第104話 「出雲国風土記」郡司署名の謎

橋本 剛 主任研究員

(2023年12月5日投稿)

 713(和銅6)年の詔(みことのり)によって作成が命じられた出雲国風土記は、20年後の733(天平5)年に完成し、都へ提出されました。ただし、当時の風土記は残っておらず、私たちが目にしているのは、それが時代とともに書き写され、受け継がれてきたものなのです。

 このように説明すると、現在残されている出雲国風土記は、元をたどると都に提出された風土記だと思われるかもしれません。しかし、一般的には、都に提出されたものではなく、出雲国府で保管していた“控え”が書き写されたのだと考えられているのです。

 こうした理解を支えている根拠の一つが、郡司の部分です。そこには郡司の位階や氏名《うじな》が記されていますが、肝心の名前が記されていません。都へ提出されたものには各郡司の署名があったはずであり、それがない現在の風土記は、都へ提出されていない控えに基づくものであったと考えられているわけです。

「出雲国風土記」(古代文化センター本)島根郡の郡司記載。赤線部分に本来は名前が記される

 ただし、こうした理解に全く問題がないわけではありません。ここで、東大寺正倉院に残された737(天平9)年の「和泉監正税帳《いずみのげんしょうぜいちょう》」という帳簿に注目してみたいと思います。この史料は、和泉監(現在の大阪府和泉地域に設置された特別行政区画)の収支決算報告書とでも呼ぶべきものです。そしてここにも郡司が見えるのですが、なんと出雲国風土記と同様、名前が記されていないのです。

 さらに重要なのは、この正税帳が奈良時代に作成・提出された本物であり、都で正式に受理されたものだということです。つまり、郡司の署名がない一見、不自然な帳簿であっても、都に提出され、受理されたと考えてよいでしょう。従って、郡司の署名がないことをもって、控えを基にしていると判断することは、必ずしも妥当ではないのです。

 とはいえ、署名がないというのは、やはり不完全であるという印象が拭えませんし、そもそも署名が本当に不要であるならば、郡司の記載自体も必要ないのではないでしょうか。

 なかなかの難問ですが、ここでは風土記が、都に2通提出された可能性を指摘してみたいと思います。戸籍など、都へ提出する帳簿には2通作成することが義務付けられているものもあり、風土記も同様だった可能性があります。

 すなわち、郡司の署名が入ったものと入っていないものの2通が都へ提出され、そのうち署名のないものが、現在の風土記の原型に当たると理解するわけです。郡司署名のある完全体の風土記が別に提出されたからこそ、署名のないものでも問題なく受理されたのでしょう。
 これまで述べてきたことはまだまだ仮説に過ぎず、ほかにも越えなければならない壁はたくさんあります。1300年前の風土記の姿を求めて、今後も研究を深めていきたいと思います。