第105話 古代の大量の紙
野々村 安浩 特任研究員
(2023年12月12日投稿)
近年、増大する紙資料の削減を目指し、タブレットなどの電子機器を利用する動きが進んでいます。島根県議会でも、まもなく会議資料の電子化(ペーパーレス化)への具体的な取り組みが始まります。このような動きの歴史をさかのぼって、今回は紙資料がいつから大量に作成されるようになったのか。奈良時代の行政の場から考えてみます。
写真は、733(天平5)年の8月2日、9日付で出雲国府が朝廷に報告した文書名を列記した「計会帳《けいかいちょう》」の一部です。計会帳では、9日付で報告した文書数が「壱拾捌巻参紙《いちじゅうはちかんさんし》(18巻3紙)」とあり、同日付のこれら文書等は「大帳使《だいちょうし》」である依網連意美麻呂《よさみむらじおみまろ》によって朝廷に進上されています。単位の「紙」は当時の公文書(縦約28㌢、横約58㌢)1枚もので、「巻」はそれを数枚(時には数十枚)貼り継いで巻物状に仕立てたものです。
ここにみえる「大帳」やこれに続く「郷戸課丁帳《ごうごかていちょう》」以下の各帳簿は、いずれも税の徴収に関わる出雲国の集計資料です。大帳とは、17歳から65歳までの成年男子に対して課税されていた調の納税者数を集計したものです。そしてこれらの帳簿の作成には、戸別に税を負担する男子の名前やその身体的特徴、死亡などの異動を記した歴名部と人数の総計部分(目録)からなる計帳が必要でした。この計帳は、戸籍と同様に郷ごとに一巻立てで毎年作成されていました。
733年当時の出雲国は9郡で郷62・余戸《あまるべ》4・神戸《かんべ》7・駅家《うまや》6から構成されていますので、国府では毎年79巻の計帳を作成していたことになります。この計帳をもとに、先の大帳ほかが作られて朝廷に送られていたのです。
また、8月2日付でも別の文書類(7巻4紙)を送っています。このように各国は毎年多くの文書を作成し、その中には都に報告する文書類もありました。
これは、奈良時代が律令《りつりょう》という法律制度によって、それまで口頭で伝えられていた命令・報告が、ほとんど文書《もんじょ》によって行うようになったためです。研究者はそれを「律令文書《もんじょ》主義」と呼びます。713年に出された「風土記」撰進命令に「史籍に載せて言上せよ」とあり、その一端がうかがえます。
当然、毎年、中央には各国からの報告文書が、各国では中央から命令の文書で届きます。戸籍の保存期間が30年と規定してあるように、当時作成された多くの文書類は保管期間が過ぎれば各所で廃棄されました。中央で廃棄され、一部払い下げられた後、東大寺でその裏面が事務用に再利用された文書がいわゆる正倉院文書で、毎年秋の正倉院展で展示されています。この計会帳もそのようにして残った資料の一つなのです。