いまどき島根の歴史

第107話 中国山地のネットワーク

東森 晋 専門研究員

(2024年1月9日投稿)

 昨秋、26年間の運行を終えた、JR木次線を走るトロッコ列車「奥出雲おろち号」。中国山地の景色に映える青と白の美しい列車の見納めに、ラストラン当日は県内外から多くのファンが沿線を訪れ、大変なにぎわいでした。その木次線沿線で、はるか昔にもさまざまな地域との交流をうかがわせる遺跡が見つかっています。

 島根県奥出雲町のJR出雲横田駅の南側に、町を一望にできる中山丘陵があります。昭和62(1987)年に、この丘の上にある国竹《くにたけ》遺跡で弥生時代のムラが発掘調査され、住居跡やたくさんの土器が見つかりました。その中に、荒神谷遺跡(出雲市斐川町)や加茂岩倉遺跡(雲南市加茂町)の銅鐸《どうたく》の文様と共通する、ひし形や半円形、連続する円形の文様が描かれた非常に珍しい大型土器の破片が含まれていたのです。

国竹遺跡の位置(電子地形図25000(国土地理院)より作成)

 残念ながら全て破片ですが、よく似た土器が、鳥取県の三吉密ヶ﨏山《みよしみつがさこやま》遺跡(日南町)で出土しており、全体の様子が想像できます。口の広い鉢《はち》に注ぎ口と大きな脚が付いた独特な形、弥生時代の祭器である銅鐸と同じ文様で飾られていることから、祭りに使われる特別な土器と考えられます。

国竹遺跡の祭り用土器(奥出雲町教育委員会所蔵)

 また、このような土器は、広島県庄原市や三次市、岡山県真庭市など中国山地の盆地でいくつも見つかっていることから、現在は四つの県に分かれているこの地域一帯が、約2000年前には共通の文化で結ばれていたことが分かります。

銅鐸と中国山地のまつり用土器

 国竹遺跡の弥生のムラでは当時、最先端の鉄の斧《おの》が二つも出土しています。この頃、庄原市の和田原《わだばら》遺跡には大集落があり、鉄器の加工も行われていたと考えられているので、関係の深い南の大集落から入手したのかもしれません。

 一方、国竹遺跡の約2㌔北東にある横田八幡宮の境内では、鎌倉時代に弥生時代の銅剣が出土したと伝わっています。この銅剣は、なんと荒神谷遺跡と同じタイプのものです。祭り用土器の文様だけでなく、銅剣も荒神谷遺跡と同じ型式である点は、弥生時代の斐伊川流域の交流を考える上で、大変注目されます。

 国竹遺跡の位置を地図で確認すると、北西の出雲平野と南の広島県北部の盆地のほぼ中間に位置しています。また遺跡から横田盆地を東へ進むと、県境を越えて鳥取県西部の日野川流域に到達します。さらに、国竹遺跡とつながる中国山地のムラは、より遠方のムラとつながり、交流範囲は広がっていきます。弥生時代の奥出雲も山陰と山陽、中国地方の東西を結ぶ重要な中継地だったと考えられるのです。